「朱に交われば赤くなる」ということがあると思う。辞書を引くといい意味で使われる言葉ではないことが解る。例えば鳴り物入りで入った来て、当初はなるほど目立つような動きや働きが見られ、声も大きく、躍動感に溢れた印象をもたらす。もしかしたら人によっては、そういう新入りを目障りに思う人がいるかもしれない。反対に頼もしく期待感を持って歓迎する人もいる。いずれにしてもインパクトが強ければ、良くも悪くも組織に対してセンセーションを巻き起こすことがある。ところが2年も経てば馴染んでくると言うか、大きかった声も、実際に声のボリュームが小さくなったのか私の耳が慣れたのか定かではないが、目立つような印象が薄れてくる。センセーションは終焉を迎え、その人物は組織の一員を構成するメンバーの一人として紛れていく。その人が組織の一部になっていく。つまり組織自体にも変化が生じるということだ。その変化は組織にとって「進化」であれば良いのだが。
反対に組織を離れる人がいる。単純に定年退職があるし、家族の都合や病気など理由は様々あるだろうが、辞めたり辞めさせられたりする人がいる。組織を構成していた一部が損なわれる事態だ。重要な役割をその人が担っているほど損失は大きく、一時機能が停滞してしまうことはよくある。しかしどうだろう、3~4ヶ月もすれば、やり方は多少変わるかもしれないが、何もなかったように全てが動き出す。「最初は大変だったよ~」などの類いは後任からよく聞かれるセリフだ。そうやって組織は変化を遂げていく。「進化」に繋がれば申し分ないだろう。
では個人の方に目を向けて、“赤くなった”人々はどんな気持ちだろうか。“慣れて”、もしかしたら精神的な「安定」を手に入れられたかもしれないし、仲間意識を獲得でき充実した生活を送ることができているかもしれない。その人にとって良いことばかりが起こっていればあまり心配はしないのだが、そうとばかりは限らないのが現実ではないかと思う。
最近では「同調圧力」という言葉が流行らしい。よく言えば「仲間意識」とか「協調性」などに置き換えられるかと思う。悪く言えば「没個性」、「自立心の欠如」、「権力への服従」とまで言えるだろうか。自分が組織の中でどうかと問うた場合、非常に難しい判断になる。結局その判断は他者に求めるしかないだろう。自分は“こういう”つもりでも、世間からは“ああいう”風にしか見えていない場合が多い。まさに第三者的な視点が試される。
私が心配するのは“赤くなった”人々がどうしてもかわいそうに見えてしまうことだ。あんなに生き生きと溌剌としていた姿が鳴りをひそめ、顔色のないままいつも何かに遠慮しながら立ち回っているように見える。失敗しないように気をつけながら、これは言い過ぎかもしれないが、常に目立たないように努めているような気さえする。気のせいならいいのだが。
大勢の中で自分らしく生きることのなんと難しいことか。時代が、管理社会が、情報化社会がバーチャルではない現実の世界において、「個性の自由な表現」を縛り上げている。この状況下では「自分のやりたかったことはこんなことではない」などと、光を見失いがちの人たちが多いのかもしれない。しかしそこで逃げずに、「どう生きるか」が本当に問われている時代でもあると思う。
大人になるってことは「自分の個性を殺す」ことであって欲しくない