Control

投稿者: | 2021-07-15

 理由が特になく気分がすぐれない時や落ち込んでいる時に、「動けない・できない」という状況に陥ることがある。私にはよくある。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という表現が適切かどうか迷うところだが、そういった時の心の問題・状況はあっさりと忘れてしまうことが多い。動けない自分と戦っている時は非常に悩み苦しむ。「なぜ俺はできないんだ、動けないんだ」と激しく自己嫌悪に陥るときもしばしばあり、私はそれを「葛藤」と呼べるほどもがき苦しむ。なかなかの辛さだ。自分をなだめながら、また時には叱咤しながら、目の前の障害を乗り越えようと奮闘する。そういった一つ一つの場面で、もしかしたら「いかに生きるか」という道筋のヒントが隠れているかもしれないくらい「重要な試練」に立ち向かっているのと思うのだが、一旦乗り越えたりやり過ごせてしまったりすると、戦い悩んでいた事実をきれいさっぱりと忘れてしまう。

 忘れてしまっても良いと言えば良いのだが、問題は悩んだ記憶がすっ飛んでしまっているので、後になって冷静に思い返した時に、「なぜあの時にこんな大事なことをやらなかったんだ!」という強烈な後悔と怒りにも近い自己否定感に襲われる。あんなに苦しんでいたくせに、まるで人が変わったように“できなかった自分”を批判し始める。私は分裂症だろうか。

 この聖人君子を装うような人格が、本当の私なのだろうか。真面目で規律を重んじ向上心があり厳格な性格。これが私なのか。反対に“できない”方の私はウジウジしていてメソメソしていて決断力が無く勇気を持てず閉じこもっている。こっちが本当の私なのか……。
 そう、恐らくどっちも私。当たり前だが、一つ残らず全部私だ。どちらか一方には限定できない。その日その時にどちらの私が現れるかは私には分からない。もしくはその中間あたりの人格が現れたり、未だ出会っていない新しい私が突然生まれたりすることがあるかもしれない。私は自分がこういう人間ですと誰かにキチッと説明できない。人目に体裁良く取り繕うことはある程度できているはずだが、一番深い部分で結局自分をコントロールなんてできない。そういう意味で私は自分に諦めがついてきた。

 そんな自分に責任がもてない残念な私でさえ、神さまの創造物であることを忘れない。神さまは私に「自分をコントロールできるようになりなさい」とはおっしゃっていないと思う。もっと基本的な話、どんな障害にぶつかったとしても、「頑張りなさい」とか「強くなりなさい」等とはきっと言わないと思う。ただいつもすぐ側で見守ってくださる。それを感じて私は祈り、委ねるだけだ。
 一見“立派”な私も、見るからにみすぼらしい私も、あらゆる私は神さまがお創りになったもの。私一個人の中にもそれだけの大きな振り幅があることにも、きっと意味が潜んでいる。祈りの中で自分と向き合い、神さまの声に耳を澄ませる。もしその声がいつか聞こる日がくるならば、神さまどうかその声に従う勇気を私に授けてください。

 忘れてしまうことにも、意味はきっとある

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