表裏一体

投稿者: | 2021-08-02

 精神的なダブルスタンダートの問題に常に苦しんでいる。このテーマではすでに2回ほど書いているが、まだ全く解決できていない。様々な表現が使われると思うが、「本音と建て前」とか、「内弁慶」とか、「人前と家庭内」とか、また個人的には「神さまに向かう時と人間の世界で生き抜こうとする時」など、自分の心の二面性に激しい矛盾を感じている。

 「いつも同じ自分でいる」なんてことが本当にできるのなら苦労はしない。現時点ではそんなことは不可能だと思っている。人は本来か弱い存在で、何度も同じ過ちを犯すし我慢できないし感情を抑えることができない愚かな生きものだと思う。「そんな弱っちぃのはおまえだけだよ」と言う声が聞こえてきそうだが、度合いの違いこそあれ多分みんな似たり寄ったりで、そういう不完全な者同士が集まって「人間社会」だと思う。理由もなく気分がハイだったり、沈んだりすることにも制御が及ばない。今まで出会ったことがないから言えるのかもしれないが、「完全」な人なんていないのではないか。例えば、どんな状況にあっても感情をコントロールしながら平常心で人と接し、愛をもって他者を許容する。そんなことを本当にできる人がいるのだろうか。

 かといって不可能だから何もしないのでは生きる意味が損なわれる。そもそも不可能だと思っているのは他ならぬ私だ。一番信用にならない。以前の投稿では「祈り続けることがダブルスタンダード解決への道!!」と結んであった。今日の結論も結局そうなりそうだが、「自分を諦めさせてください」、もしくは「あなたの僕とさせてください」という祈り方も大切であると今日は付け加えたい。
 祈りに入り込めているときの心の状態が穏やかで好きだということと、その状態を祈っていないときにも保ち続けたいという願いは今でも変わらない。しかし浮き沈みの多い心の様子を考えると、まだ自分の力を過信している部分が捨て切れていないところに原因があるのではないかと思われる。自分の力だけでは変えられないことが存在することに、そろそろ本当の意味で気づいてもいい頃だ。今祈りを一つのことに集中させるのであれば、「あなたの僕にさせてください」になると思う。

 甘えるのは神さまにだけ。泣きすがるのは神さまにだけ。怒りをぶつけるのも神さまに対してだけ。そしてその他の全ての世界では、正義に溢れた自分が納得できる行動をいつも取れる人間でいたい。そういう二面性であれば、むしろあるべき姿なのかと思う。二面のように見えて、実は両面が結びつき合っているだろうから。
 弱い自分を認め、自分の力を諦め、神さまにすがる。自分の力をだけを信じて、破れても立ち上がり、砕けても前進してきた私には、なかなかに受け入れがたい「屈辱」なのかもしれない。自分を信じることに身体が慣れ切ってしまっている。しかしそこでその屈辱を乗り越えられるかどうかが、「委ねる」ことができるかどうかが、カギなのかと思う。その部分で成長できれば不可能の壁に眩い亀裂を見ることができるかもしれない。「できない」「分からない」「苦しい」の向こう側にきっと希望がある。

 どんな人にも同じように接することができる人になりたい

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