混沌

投稿者: | 2021-08-26

 自分の思うように、或いは自分が願うように世の中の事象を歪めて捉えてはダメだということだと思う。こうであって欲しい、こうなって欲しいというある意味での「妄想」を、それとは気づかずに万物においての正しい定理として考えてしまう人は多いのではないか。その時点で冷静に考えられる人との間に確実な差ができる。かく言う私もそういう類いの一人だと思っている。自分の理想・思い、もしくは勘違いが強すぎて、そこに向かうために自分がしていることが良いのか悪いのか、冷静に判断できなくなることが多い。激しい情熱や思い入れが他者の常識を覆すことがあり、そういう生き様に憧れるところが私らしいとも言えるのだが、やはりそうではなくて、ひたむきに万物に精通する真理を追究する道を進みたい。

 大リーグなどで活躍したイチロー選手があるインタビューでこう言っていた。「近道はない。遠回りが近道だ」。誰かから答えを教えてもらい、たとえそれが正しい答えだったとしても、本人が様々な経験を通してその答えに自分でたどり着かなければ、その答えは正しくはならない。そんなように私は解釈した。イチロー選手の言うことが正しいとするならば、私が「自分が願うように世の中を捉えてはダメだ」ということは一つの“答え”であり、誰かがこれに同意してくれたとしても、本人が実感としてこの概念をつかみ取らない限り“ダメ”にはならない。何か禅問答のようになってしまい申し訳ないが、つまりいくら自分が正しいと確信している内容でも、他者に強要はできないということだ。

 「自分の正しい」は自分で獲得するしか方法はないとしても、自分の考えや経験を他者に伝えても意味がないとは思わない。私がイチロー選手の発言を聞いたことがきっかけで、イチロー選手の成し遂げてきたことを思い返し、苦労や失敗や歓喜など彼の生きてきた道を追体験しながらその言葉の重みをいくらかでも感じ取ることができた。そしてそれを自分の中に落とし込み、感じ、イチロー選手の言葉が一つ私の新しい経験となって積み重ねられる。こうして学びの機会を与えられ、最後はスーっと清々しい思いが胸を駆け抜けていった。謎がまた一つ解けたような、混在していたものが整えられたような、同士をまた一人見つけられたような、一歩前に進めたような、そんな気がする。

 何度も書いてきていることだが、恐らくこのまま完全なる正しい答えにはたどり着けないのだろう。即ち答えのない問題にひたすら挑み続けることが人生かなと。その考えも今時点のことで、この先どう変わるかは分からないが。決して悲観的に捉えているのではない。答えが見つからないからこそ探求が続けられ、希望がある。
 一人一人に考えや信じる道があっていい。それを他者は否定できない。そう考えると一人一人に神さまがついていて下さるのかなと思う。「あなたの神さまと私の神さまは違う」と言っているのではない。何かこうビジュアル化が難しい、一対一でありながら一対全員と言うか、異次元空間のような、見えそうで見えないような、神さまと人間の間にそんなおぼろげな世界を感じる。ハッキリ書けなくて申し訳ない。でもそんなことを考える前に、自分の神さまとの関係をもっともっと深めなければと、少し焦りを感じる今日この頃だ。

 ぶっちゃけ、今日のこの内容、理解できますか?

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください