耳を澄ませて

投稿者: | 2021-09-08

 頭の中で考えていることを表に出すという作業は大切だなと思う。こうしてブログを書くことも良いが、実際に声に出して発言してみることはまた一つ違う良さがあると思う。会話するという作業だ。やはり一人で考え込んでいると、独りよがりに陥ってしまいがちで、その考えが普遍性を伴っているかどうか分からなくなることが多い。自信がなくなるというか、反対意見が恐いのではなくて、言わんとしている意味を理解してもらえないことは至極虚しい。そこは最低限クリアしておきたいレベルだ。そのためにも生のコミュニケーションは大切。

 会話をしていると私が言ったことに対する相手の反応を、当然だが、リアルタイムで感じ取ることができる。相手の性格や自分との関係などは別として、どんな反応であれ、少なくとも私の言っていることが通じているかどうかは判断できる。変な話だが、それだけでもホッとする。世間話程度の軽い内容ならばそんなに大げさには考えないが、如何せん私が心の奥の方で考えていることはちょっと込み入った“面倒臭い”ことが多いので、受け入れてもらいにくいことがある。誰にでもそんな小面倒臭い話を振るような偏屈なおじさんではないつもりだ。だから、差別しているわけではなく、そういう込み入った話をするときは人を選んで吐露させてもらっている。

 もう一つ、話しながら自分の声の響きを聴くということも大切だなとも思っている。仕事の行き帰りに車の中で、英会話のCDを聞いている。日本語の訳と解説を含めて1回3分ほどの短いものなので、何回か繰り返し聞きながら、細部をテキストブックで確認していると丸々暗記することができる。さらに続けて流していると、声に出さなくていいならば、私は流暢な英語で完璧にそのセリフを追いかけることができるようになる。ところが実際に声に出して追いかけてみると、これがなかなかできない。自分の声を自分の耳で聞きながら、うまく発音できない箇所で一度引っかかってしまうともうダメで、CDに置き去りにされていってしまう。うぬぼれの錯覚を恥じ、己の力の無さを思い知らされ毎度落ち込むが、悔しくて懸命に奮起する。何度も何度もチャレンジしてCDに食らいつこうとする。少しずつ力は付いてきたような気はしている。
 頭の中では私はいつも凄い。何でも完璧にできる天才だ。しかし声に出すことで外界に飛び出し、そこで自分の声を聴いた瞬間プライドはひび割れ、「通用しない自分」という冷たい現実を突きつけられる。自分の中の世界だけでしか存在できないものは幻想でしかない。本物にしたいのなら、本物かどうか確かめたいのなら、持ち出して外で試してみるほか手段はなさそうだ。英語のことだけではなく。

 実際の話、会話するときに自分の声を意識して聴きながら話していると、少し冷静になれるような気がする。「いつも必ず」という訳ではないが、自分と聴いてくれている相手との距離感を第三者的な視点で測れるような感じがする。そして不思議と自分の考えが話しながらだんだん整理されて、口からこぼれて出ていくような快感を味わうこともある。「そうか、オレはそういう風に感じてたんだ」というような、胸がスーッとする「気づき」がもたらされることがあった。まぁ、今日は何が言いたいのかって、たまには真面目に話をすることも大事だよねということ。

 でも実際にネイティブと会話してみても、ぜんぜん成果を感じないんだよね~

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