Good News

投稿者: | 2021-09-07

 少しずつ分かってきたこと。「分かった!」と言い切って書いてしまうとまた怒られるので、現時点で分かったつもりになっていること。なるべく難しい文にしたくないし、私一人だけの世界に籠もりたくないので、なるべく簡単な言葉というか誰にも分かりやすいだろう言葉を使おうと思う。あくまでも私見として書く。
 人間が一番恐れているものは「死」なのかなということ。死後の世界については、あるのかないのかも含めて、まだちょっと考えが及んでいないので、今日は記述は控える。今日のところは死んだら「無」になるということで留めさせてもらう。死んだらゼロ。死んだ本人の見地に立って想像するようなことはしない。それよりも誰かが死んだことによって残された人たちのことを考えたい。

 神さまは十字架の上で磔にされ、今にも殺されようとする自分の息子、イエス様をそのまま何もせず見殺しにされた。私はそこに全てが集約されていると思う。人間が一番恐れているものが「死」であって、この世で一番大切なものは「命」かなと思う。神さまは最愛の息子の死を人間に届けることで、『命の大切さ』とそして自らの『愛』をお示しになった。最も愛しているものを捧げられるほどに、神さまは人間を愛してくださっているという証しだと思う。
 神さまはすべてご計画されていたんだと思う。愛息が十字架に磔にされることを知りながら敢えて地上に降誕させた。人間に「愛してるよ~」と真に告げるために。イエス様は人間が見える姿になって舞い降りた、神さまの愛の形だ。ついに神の愛が目撃されたのだ。言い換えれば、「殺すために人間の世界へ送った」とも言えるだろうか。自分の息子を人間に殺させることで、人間は自らの愚かさ、不完全さ、未熟さに気づき、やがて神さまの愛の深さを胸に刻むことになる。人間は自分たちが最も恐れている「死」を、事もあろうに、神子に向かって叩きつけたのだ。

 「敬神愛人」であるとか、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」とか、「姦淫するな、盗むな……」とか、イエス様にまつわるお話はたくさんある。これからもっと聖書を読み込んで学びを深めていきたいと思っている。しかしそれらの教訓的なお話は枝葉のことだと思っていて、私がキリスト教に惹きつけられる大きなポイントは「神さまが殺されることを分かっていながら、敢えて自分の息子を人間の世界へ送り出した」という理解だ。人間にとって自分たちと同じ姿形をした“人間”が死ぬという、目に見える現実を通して示す方法が恐らく一番効果的で、神さまが愛を伝える唯一の手段だったかもしれない。人間的な感覚で考えるとだが、そんなことは普通できるものではない。しかしそれは実際になされた。

 そもそも神さまのことを私の知識を使い、私の想定の範囲内で捉えようとすること自体に問題がある。ナンセンスと言える。でも突然何かが降りてきて、電撃的に私が信仰を授かることは考えにくい。無い頭を絞って抗い続けるしかない。
 完全にスッキリとは色んなことが整理されていない。そんな今の段階では残念ながら、何もかもを投げ捨ててキリスト教に突っ込んでいけるほど、心が燃えている状態ではない。欲している。そういう自分になりたいと思う。しかし、辛抱の時期かなと思う。

 今日は同じことを繰り返し書いていたような気がする。大丈夫だろうか……。

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