再開(その1)

投稿者: | 2021-09-18

 聖書研究会をZOOMで再開した。ついに再開できた。私のこの「聖書研究会」(以下、聖研とする)とは高校の時の担任の先生のご自宅に、高校時代の親友とお邪魔して、一緒に聖書を読み進めていくという会だ。先生のお連れ合いも参加してくださって、4名で行っている。コロナ禍で1年半以上の長期にわたって中断していたが、今回ようやく再開した。私が対面での開催にこだわっていたことと、その他の都合もあって、ZOOMでできることを分かっていながら再開を先延ばしにしてきた。対面でできることに越したことはないが、やってみた結果は上々だと思う。

 いつもは読む聖書の範囲をあらかじめ決めておいて、私と親友がそれぞれ予習をし、当日一人ずつそのレポートを発表する。これに対し他の参加者が応答してくれるというやり方。大げさに聞こえるかもしれないが、「命がけ」で予習する。そうならざるを得なくなってしまうというのが実際だ。
 一回一回の聖書の範囲は狭いので、読むだけであればすぐ読める。ここからが研究の始まりで、何をしていても頭のどこかで聖書の言葉の裏側に隠された意味を考えるような状態に自然と入っていく。「新約聖書略解」や「聖書事典」、また他の解説書にもあたって読み解きにかかる。インターネットでも調べる。時には誰かと話し合ってみたり、疑問があれば牧師先生に質問してみたりもする。そして自分の経験と照らし合わせながら、心の中に浮かんでくる「解釈」を引き出す。

 とにかくそういう事前の準備についても当日の発表についても、この聖研に関することについてはいっさい手が抜けない。それこそ寝ている場合ではない。普段の仕事に忙殺されて準備に時間を割けない時もあるが、そういう追い詰められた状況にこそ自分の真価が試されるような気もしている。絶対に手が抜けない。と言うか、抜きたくないのだ。あの空間を一言で表せば「真剣勝負」の場。神さまに祝福され愛に満ち溢れた場所であることは間違いないが、少なくとも私には、自分の限界と思われるところまで頭と身体を振り絞って挑む、戦いの場所でもある。今日なんて先生から問い詰められて、まさに頭が爆発するかと思ったくらい“きゅー”っとなった。最近血圧が高めなので気を付けなければ。

 「嘘」や「取り繕い」が通用しない場所なのだ。見抜かれてしまう感じがするというか、私の言うことがどんなに稚拙なことであったとしても、それが真剣に考えた末の一つの答えであれば全く問題ない。自分では「何でこんなに浅はかなことしか言えないんだ」と落ち込んだとしても、それが本気で自分の心を見つめた結果であれば、不思議なほどに見事に伝わるのだ。
 要は真剣に取り組んだかどうかが簡単に見透かされてしまう「シビアな空間」であるということ。参加者が本気で望んでいる世界。それも彼らは日ごろの生活から本気で生きている人たちばかりで、私のような偽物が同じ時間を共有させてもらえること自体、「ホントにいいのだろうか」と実は怖気づいている。そのくらい彼らは私が真に認める「本物」ばかりの集団なのだ。少し私のプレッシャーを感じてもらえただろうか。
 しかしそこで引いてしまっては余りにも勿体ない。この厳しい空間が今の私を支えてくれている源なのだ。この聖研に臨むために聖書を勉強している時、心が燃えているのが分かる。神さまが与えてくださったこのかけがえなのない機会を決して無駄にはしない。

 (その2)へ続く

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