久しぶりということで今回は聖書箇所を決めず、この一年半以上の中断期間で感じたり疑問をもったりした内容を、近況報告を含めた形で発表し合った。レポートを書きながら一番思ったことは、私にとってこの聖研はとても大切なもの・場であるという再認識。自分の心に向き合うことをサボっていたなという印象。向き合ってはいなかったのだが、疑問やモヤモヤしたものは心の中で増殖したいたようで、それを処理・消化する作業ができていなかった感じ。いざ準備を始めると自分の中の矛盾みたいなものが“あれよあれよ”と湧き出てきて、もう収拾がつかなく、自分でも何が分からないのか分からなくなってしまった感覚だ。苦しかった。
この準備期間、その“もがき”の影響がいつかのブログへ及んでしまったようで、考えが安定しない記事を残してしまったことがあった。まさに抗いながらも懸命に生きようとする証拠を残せたことをむしろ喜びたい。
考えに収拾がつかなくなってしまったことは、もうどうしてみようもなかった。とりあえず書いてみたレポートは“つぶやき”の連なりのようになってしまい、読む人にもっと分かりやすいように修正しようと何度も何度も最初から読み直してみるが、毎回読んでいるうちにいつの間にか“迷い”の暗い淵にハマってしまう。解説本などに当たってはみるものの、そもそも何が分からないのか自分で把握していないので、どこを読めばいいのかもはっきりせず、結局胸にスッと落ちる答えには巡り合えなかった。もしかしたらこういう類の勉強は初めてだったかもしれない。まぁ苦しかった。
もうどうしようもなかったけれど、私の「迷い」をそのまま当日発表の場でぶつけた。研究した結果のプレゼンと呼ぶには、あまりにもまとまりがなく、「私が迷っている」ということが主な内容になってしまった側面がある。発表しながら実は心の中で「これはヤバいな」と思っていた。これは厳しい応答が返ってくるだろうなと覚悟した。でもそれが精いっぱいだった。
詳細は説明しないが、私の「迷い」を一言で言えば、「イエス様の存在を理解できていない」ということ。神さまに生かされている存在としての自分を少しずつ感じられるようになってきたけれど、では神の子イエス・キリストの存在は私にとってどんな意味があるのだろうか」という問い。考えても考えても分からない。
結果的に怒られるような応答が誰からも返ってくることはなかった。ヒントというかアドバイスというか、先生は福音書の中の一つのお話を例に挙げて応答してくださり、またご自分の壮絶な経験を通して、涙ながらに私に何かを伝えようとしてくださった。心底ありがたいと思う。先生の意図をその意図した通りに私が受け止めることができたかは分からない。でも私はこう受け取った。「それでいい」と。肯定だった。
たどり着けるかも定かではない「答え」は一人一人に与えられていて、先生と同じ場所に私の答えがあるとは限らない。先生がいつも話されることだ。もしかしたら行く道のりさえも人によって様々なのかもしれない。でも先生は敢えて私に「そのまま行け」とおっしゃってくれたんだと受け止めた。聖研の翌日の朝、寝起きに枕元の聖書に手を伸ばし、ふと次の範囲を開いた。
見ないのに信じる人は、幸いである