お年頃

投稿者: | 2021-10-08

 こうして1時間経っても2時間経っても、な~にもネタが浮かんでこない日がある一方で、PCの前に座った瞬間に指が動き始めて、そのまま導かれるように書き上げることができてしまう日もある。本当に不思議だ。でもネタを思いつくことに苦しむのが普通で、割合で言えば8:2で苦しんでいると思う。苦しんだ記憶は長く残り、何事もなかった日は通り過ぎていく。人生のことではない、このブログの話だ。

 初めて日記をつけたのは中学1年生の頃だった。カギ付きの小さな本のような白い日記帳で、それが透明のプラスチックのケースに入っていた。私の持ち物とはちょっと思えない乙女チックな外観で、中には小さな恋心が幼く綴られている、秘密の箱だった。そういう“日記癖”と言うのか、その頃から書きたいという意欲は芽生えていたんだと思う。ところが何ごとも長続きしない性格が継続を妨げる。最近はその白い日記帳を懐かしく開いてみることもなくなり、よく覚えていないが、確か2、3日書いて終わっていたのではなかったか。
 それ以降も折に触れて何とか続けて書いてみようと、何度かトライしてみたものの、いずれも志半ばで頓挫してしまっていた。いちばん続いたのが10年ほど前に書いていたmixi。読んでみると、内容が最近よりもずっと稚拙で恥ずかしい思いがするが、この時の苦い経験が今だいぶ役立っているように思う。いつまで続くか分からないが、今回のこのブログの継続を一応の成功と捉えるならば、幾多の失敗を繰り返しつつも「40年越しの目標」が達成されたことになる。間違いなく快挙という言葉に値する私の偉業だ。

 諦めていたもの、忘れていたものを思い出して、今一度トライしてみたくなる年頃なのかもしれない。人生の恐らく折り返して地点を折り返して、墓穴に向かって生きていく。それは決して悲観的な人生の捉え方ではないと思う。「人生を語る」なんて、今まで恥ずかしくてできやしなかった。でもこうして言ってしまっていて、やっぱり言いたくなってきたということだと思う。気がつけば私だけではなく、同じ年代の人たちにも同じような傾向が出てきているようだ。飲みの席などでの会話内容が変わってきている。やっぱりそういう年頃になってきたということだと思う。そんなことからも私がこのブログを今のところ書き続けられている秘密は、「時が満ちた」ということに尽きると思っている。40年経って、やっと書けるようになってきたのだ。

 これからもネタに困る日々が続くだろう。あまりに囚われすぎて日常の業務に支障が出てしまうことがあるかもしれない。しかしここだけの話、仕事については“サボってなんぼ”という部分がある。一生懸命にやっているフリをして誤魔化すことができる場合があるが、このブログはそうはいかない。デキの良し悪しにかかわらず、全て記録が残ってしまう。日記という内密の形にせず、こうのように公開の形を取った宿命だ。でもだからこそ続けられるのだと思っている。読み手を意識するからこそ手が抜けない。そのシビアな環境が私を奮起させるのだと思う。
 そしてそれは別の言い方をすると、何をするにも一人でやろうとすると続けられない私に、読み手という見えない仲間がいてくれるということ。ブログを書くにあたり、心の弱い私にはいつも「読み手」という応援団がついてくれている。

 久しぶりに、白い日記帳、開いてみようか!?

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