永遠の青年

投稿者: | 2021-11-21

 「最近の若いもんは!」というお決まりのセリフはいつの時代にも使われる。私はあまり使っているつもりはないんだが、どうやら暗にそういう意味合いを含んだ表現をしてしまっていることがあるようだ。若者は常におじさんの標的にされる。単純に「若さ」への嫉妬があるのかなとも思う。
 私が若い頃は三無主義と批判された。「無感動」と「無関心」とあともう一つで3つの「無」。最後何だったっけ……。とにかく何をするにしても「気持ちが入っていない」とか、「適当に生きている」とか、或いは「真剣に生きろ!」とまで批判された。戦後の復興期に少年時代を過ごした親の世代から見れば、安定した暮らしの中で“のほほん”と生きている我々の世代の様子が歯痒く映ったのかもしれない。

 私は少年野球時代、キャッチャーをやっていた。うちのチームのエースは小学生のくせに素晴らしい剛速球を投げるピッチャーで、その界隈でちょっと噂になるくらいの良い球を投げていた。しっかりスピンがかかって外角低めにコントロールされた時のストレートは、受けていて本当に惚れ惚れした。バシッと私のミットが心地よい音を立てて彼の投球を捕球したある時、あまりにも気持ちが良かったので、そのまま目を閉じて動かず、首だけ左右に振りながら「いい球だなぁ」と感触を噛みしめていた。するとチームメイトが私の様子を見て爆笑しているのが見えた。「何やってるんだよ、早くボールを返せよ」という感じだったと思う。分かっていても、ついついいちいち感動して、浸ってしまう自分がいた。その頃から私は自分で「感動しやすい性格」という意識を持つようになったと思う。

 言い換えると、「ちょっとのことで大げさに反応する性質」とも捉えられるだろうか。野球のことに限らずその頃は、「大げさだな~」と周りからよく言われて、注意しなければと戒めていたことを覚えている。感動屋さんはバカにされがちだった。バカにされたように笑われるのは嫌だった。だから少しずつ感情を抑えていったように思う。そうやって段々本当の気持ちを隠し、自分を偽ることを覚えていったのではないか。その頃、周りからの嘲笑を跳ね除け自分の感情をそのまま表すことができる強さは、私にはなかった。もし私が「無感動者」なら、それは周りの環境がそうさせたのだと言えるかもしれない。

 「感受性」という言葉がある。あまりおじさんに対して使われる言葉ではないだろう。だって「感受性の豊かなおじさん」は、ちょっとキショいかも。でもそこに一つヒントがあるのかなと思う。いくつになっても、どれだけ多くの経験を重ねてきても、新しい刺激に対して感受性を目いっぱい発揮して感じ取り、さらなる関心・好奇心を育てていく。もしそれができるのなら、どこで何をしてきた人生だろうが関係がなく、いつまでも自分探しの旅が続けられるのではないか。若くいられるのではないか。それを突き詰められれば、やがて「キショい」が「カッコいい」に変わっていくことを信じている。
 故意に抑え込んだ自分の感受性の大切さに気づき、そこに本当の自分を知る秘密があることを探りつつ前に進めるのなら、また一つ可能性が拡がるように思う。自分の心に素直に生きていいんだ。

 あ、そう、「“無”責任」ね。

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