生きている書物

投稿者: | 2021-11-27

 そりゃあ、神さまはいますよ。見たことはないですけどね。でもいます。そうじゃないと説明がつかないことばかりですから。いるとしか考えられないです。でももうそれは考えるとか説明がつくとか、そういう次元を飛び越えて、理屈じゃなく、いらっしゃると感じるんです。信じようと努力するのではなく、もうすでに信じている。もはやそれが当たり前であり、自然な状態なのです。問題はその神さまとどう付き合っていくかです。

 聖書がヒントになると思います。どう神さまと付き合っていくかという問いに対しての。私は今日まで聖書とは「良い生き方の教科書」のように捉えていました。書いてある全てのことは我々が従うべき教訓とか、見習うべき良い例だと思っていました。だから解釈の仕方も結論がハッピーエンドへ向かうように自分で捻じ曲げていた節がある。そう思います。読んで最初に受けた印象を押し殺して、美談に練り上げていくような作業をしていたように思います。
 読んだ印象を吟味することはとても大切なことで、やらなければいけないことだと思います。よく考えるという意味で。しかしあらかじめ自分の中で決めてしまっている決まり事から離れず、それに見合うように聖書の解釈の帳尻を合わせていくような読み方をしていては、いつまで経っても本当に聖書に書かれていることの意味を心にしみ込ませることはできないと気付かされました。そんな読み方は、むしろ傲慢で独り善がりの偽善行為だと思います。自分を「一生懸命勉強している努力家の優等生」に見せようとしているような、自分ではそんな気は全然ないんだけれども、結局心の奥でそういういやらしい闇の部分が自分の中にあるのかなと思います。それを見るのは辛いです。

 「自分のやってきたこと、していることを肯定したいがための書物であれば世の中にいくらでもある。自信をつけたいならそういうものを読めばいい。そのための読書ならば、聖書を選ぶことは間違っている」。恩師が今日話してくれた言葉だ。
 聖書には良いことばかりが書かれているわけではない。人間だから、妬みも嫉みも怒りも差別心も意地汚さも欲望もあれもかれも、全ての感情が備わっている。それらの「人には見られたくない恥部」を包み隠さず全部テーブルの上に並べて、読む者に「あなたも間違いなくこういう部分を持っていますよね。あなたはどう生きますか」と問いかけてくるのが、聖書という書物だ。同じ個所でも読む側に変化が起きていれば、問いかけられる内容が変わってくる。生きている書物とも言えるかもしれない。

 辛い。自分で見たくない、見ないようにしてきた部分を聖書という書物が突き付けてくる。もしかしたらそんなことはやる必要のない行為かもしれない。わざわざそんな辛いことをしなくても、避けて生きることも可能だろう。
 私は逃げたくない。そういうことを念頭にもう一度、聖書を読み直してみたい。「これだ!」と、掴んだと思って歓喜した考えを聖書を読んで壊されて、また見つけてまた壊されて、日々新たにされる人生。恐らくかなり辛く厳しい人生。けれどもきっと恵み多き幸せな人生だと思う。そうすることがそのまま神さまとの付き合い方に自ずとなっていくような気がする。目指す覚悟を生み出せるかが問われている。

 本物になりたい

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