私なんかは人を見る時、「この人は“本物”かな?」等と無責任にも鑑定しようとする時、やはり何を言っているかとか、その人の歩んできた足跡を辿って判断する。有名人やスポーツ選手や政治家等、直接は知らないんだけれど、メディアなどで取り沙汰される人たちに対して。最近はもっぱらインターネット上でその人に関しての記事や批評、また画像や動画なども閲覧して、その人に触れようとすることが多い。ネット上のことなのでどこまで信頼に足る情報なのかは分からないが、ま、それしか方法がない。もしかしたら作られたイメージに私も乗せられているのかもしれない。とにかくは、発言内容に着目して判断することが大半だ。
ところが私の母は、「その人が何を言ったか、何を成し遂げた人か」等々のことよりも、「何をしている人か」程度の情報は軽く掴んでおきつつ、まず外見に目を向ける。単純に容姿がいいかどうか。いわゆる“いい男”、“いい女”かどうかということに、まず興味が注がれるようだ。私がその人がどんなに凄いことを成し遂げたかをトクトクと説明しても、聞いているのかどうかも分からないような気もそぞろで、テレビを食い入るように見入っている。私としては呆れてしまうのがいつもだが、でもこれが恐らく「普通」の反応なんだろうなと思う。政治家がどんなに高尚な演説を打っていても、難しい話はうっちゃっておいて、その人がカッコいいかどうかという「容姿」に注目してしまう。「この人も悪人面だね」とか、「シンジロウくんはどうしたの?」とか。でも私の母だけに限らず、全国的にあまり関心のない方々はそんな感じかなと思う。
「成績が良く真面目で部活動にも熱心で様々な方面で才能があって向上心も抜群でetc.」という、一見非の打ち所のない優等生の見本のような人がいたとして、その人が周りから人気があるか、好かれているかとというと、必ずしもそうとは限らないことがあると思う。あまりにも“出来過ぎ”てしまうと、反対に疎まれたり妬まれたり、本人には何の落ち度もないのに反感を買ってしまうことがある。社会とは、人生とは、時に理不尽に思える。少し“抜けて”いて、“スキ”があるくらいの方が可愛がられるものかもしれない。加減は非常に難しいが。だからと言って意図的に“抜けて”いるように見せようとしても、もしバレれば、もはや取り返しが付かなくなる。不器用な人は一体どうしたら支持を取り付けられるのだろう。
“いい男”や“いい女”の容姿の良さについては私はちょっと分からないが、なかなか“人気”が出ない“出来過ぎる”人たちについては、応援したい気持ちがある。恐らく彼らは尋常ではない努力をして、他人から見れば羨ましがられるほどの“出来過ぎる”状態にまで自分を向上させた。文句なしで素晴らしいと思う。称えられるべきだ。
しかしその結果、「報われない・受け入れてもらえない」という非常に残酷な現実を突きつけられて失望・絶望することがあるかもしれない。で、そのどん底の時がチャンスなんだと思う。腐らずいかに力強く立ち直るか、どのようにその「底」から這い上がってくるかが問われる。その人自身の生き方が問われるんだと思う。もし、自分らしい、自分が納得できる立ち直り方で生還できたとしたら、その時はきっと「人間味」を身に着けて、無敵にカッコ良くなっていると思う。
神さまは、きっと見ていてくださる