無花果

投稿者: | 2021-12-04

 いつもの朝と同じように、洗面所で頭を流しお湯でゴシゴシと洗っていた。スキンヘッドにしている私だが、毎日頭皮を剃り上げているわけではない。2~3日に一度か冬場は4日に一度くらい。年末年始などの長期の休みの時はもっと間を置く。今日は剃って2日目の朝。指先の腹でゴシゴシしながら、生え始めてきた短い髪の毛がチクチクと痛く感じた。昨日の朝はスムーズだった頭皮上に変化が起きたということ。昨日の私とはもう違う私がそこにいる。
 この小さな事実を捉えて、何を思うかということ。昨日はなかったものが自分の中に生まれて、また新たにされていく。それを感じている自分が今日ここにいる。それって、凄いことだと思う。いや、凄いことだと思えるようになってきた。私の両親が愛し合って何億倍の競争率の中から私が生まれて、その前には祖父母の関係があったわけで、どれだけ多くの人のお世話になって、どれだけ多くの幸運に恵まれて、今私は指先で「チクチク」感じられているのだろうか。果てしない計算。そして全能の神さまへの思い。

 全てを当たり前だと考え過ぎてはいないだろうか。みんな与えられていて、与えてくれる人々がいなかったら何も手にできないのに、「それが仕事だろ」とか、「社会はそういう風に回るものなんだよ」とか、利いた風なことを言って「当たり前のこと」と処理してやり過ごしてしまう。本当にそうだろうか。あまりにも愛が無さ過ぎやしないだろうか。
 私はそうしてきた。あまりにも無責任に当たり前のこととして、物事の本質を見ようとしてこなかった人間だ。だからこそ、感謝してこなかった反省と後悔の念を含めて、もう一度今ここに生きていられている「奇跡」をちゃんと感じたい。

 でも聖書は「人間はそんなアホでダメな存在なんだ」と教えてくれる。新約聖書に「いちじくの木」にまつわる話があるのだが、そこでは人間であるイエス様がいちじくの木に向かって呪ったり、怒ったりする場面が展開される。神の御子であるイエス様にしては随分と乱暴な行いに思えるのだが、これはイエスでさえも人間であるがゆえに、もしかしたら最も人間らしい特徴である「不完全さ」を備えていることを示している。そこを踏まえてどう生きていくかがカギになってくると思うのだが、その前提である「人間の不完全さ」を聖書は全く認めている。人間はアホな生き物なのだ。
 だから私は思う。当たり前のことと流してしまうのも、知った風な口を利いてしまうことも、感謝しないことも、愛が無いことも、みんな人間だから仕方がないのだ。気づいたこの場所から再スタートして、もうこんなことが起こらないようにと奮起しても、形や程度は変わったとしてもいずれまた同様の過ちや罪を重ねてしまう。悔しいけど、納得いかないけれど、それが人間だから仕方がない。人間なんて信用ならない生き物なんだ。

 だからこそ一人一人が自分自身を掘り下げて考え、今自分が立っている場所を不完全なりに確かめなければならないと思う。自分が真に何を思うか見つめなければならない。そうしないと人々は本当の意味で助け合い、励まし合うことはできないと思う。今持ち得る最大限の真理を持ち寄って支え合うべきだ。ダメなりに精一杯誠実に生きることは、今はそれしか私は考えられないし、一人でも多くの人がその人なりの誠実を考えて実践してくれたら、『平和』にまたひとつ近づけるのではないだろうか。

  与えられている恵みに感謝し、祈る。

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