Who is he ?

投稿者: | 2021-12-23

 もう一人の自分が俯瞰で自分を見ていると意識できるときがある。悩んだり悲しんだり、怒ったり楽しんだりしている自分とその周辺を、少し離れた場所から冷静な目で見ている存在がいることに気づくことがある。“冷めた目”で見ている自分とも言えるかもしれない。結構最近になって気づき始めたように認識しているが、発見してそんなにびっくりしなかったところをみると、もっとずっと前からいることはいたのかもしれない。お陰で感情的な性格の私が少し冷静さを獲得できてきているような気がしている。一旦カーッとなるにはなるが、自分で鎮火できるようになったと言うか、比較的早く強い感情を抑えられるようになってきた。歳のせいで威勢がなくなってきただけでなく、その「もう一人の自分」の存在が大きいかと思っている。

 一方で「どちらが本当の自分なんだろう?」という問いも浮かんできている。あまり冷静すぎる自分には、正直愛着が湧かない。「チャレンジして壁にぶつかって大けがして大泣きして後悔してまた闘志に火をつけて」という人生に憧れていたし、今はこぢんまりとしてしまっているが、まだどこかで諦めきれない部分を抱えている。つまり冷静では無い自分にプライドを持っていると言ってもいい。だから俯瞰で見ている自分は恐らく私では無いのだろうと思う。ではいったい“彼”は誰なんだろう。何なんだろう。

 具体的に何かをしてくれるわけではない。「もう一人の自分」と言っても私の事なので“してくれる”という表現はおかしいが、何となくそういう言い方になってしまうのが不思議だ。“彼”は特に何かをしたり思ったりするわけではなく、少し上の方から無感情に見ているだけ。私はもしかして何かに憑りつかれたとか、どうかしてしまったのだろうか。
 “彼”はいつもいるわけではない。普段の平穏な生活を送ることができているときは、いない。と言うか、存在を意識しない。何かがあって感情が高ぶり、我を忘れそうになっているような時に現れる。と言うか、私が無意識に探すのかもしれない。助けを求めるのかもしれない。

 「まさかイエス様なわけはないだろう」等と、漠然と“彼”は一体誰なのだろうという疑問を考えていた先日、2,3日前にも言及したが、知人の体にガンが見つかった知らせを聞いた。病状を聞いてその人が亡くなるかもしれないと思った瞬間、心の底から嫌だと思った。その時の感情は凄まじいものがあって、とにかく助かって欲しい一心で泣き叫んでしまった。思わず「死なないでください!」と年甲斐もなく、電話口で号泣してしまった。その時にもう一人の冷静な自分はいなかった。現実に抗いたい一心で、少しでも他のことに気を配ることは、しようとも思わないし、そんな余裕はなかった。まさに自分の意志ではどうすることもできない制御不能な状態に陥っていた。
 そして落ち着いてから思ったことは、その「自分の意志ではどうしようもない状態」が『信仰』の世界なのかなと感じた。抽象的かつ分かりにくい表現で申し訳ない。直感的に思っただけで私も整理が付けられていない。ただ信仰とは「理屈じゃない」のかな、「整理がつかないもの」なのかなとも感じたのだ。
 私の中でイエス様の存在は確立できていない。確かな存在として位置付けたいと願っている。しかし確立しようとしてできる性質のものではないのかもしれない。確立しようしようとするから、反対にますます暗闇に落ち込んでしまうのかもしれない。何の根拠も持っていないが、そう感じてしまったという報告。本当の修行はこれからだ。

 それでは、「もう一人の自分」とは、誰なのだろう?

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