今日は日本で俗にいうクリスマス・イヴということで、イエス様の降誕をお祝いしようとするわけだが、本当の意味で「クリスマスを祝う」ということを私は理解していない。イエス様が生まれてくださって、神さまが私たちにイエス様を遣わして下さって、「ありがたい」と心の底からは思えていない。「感謝」とか「信仰」とは誰かが何かをしてくれたから、その行為に対して抱く感情ではないように思う。無条件の自然発生的な気持ちではないだろうか。それも強めの、例えば「感謝せずにはいられない」というレベルの感情。魂が揺さぶられるような制御不能の喜び。私がクリスマスに対して抱く気持ちは、まだ頭で考えるレベルでしか熟成されていないように思う。そういう意味では訳も分からず何だか楽し気な街の雰囲気に乗ってバカ騒ぎしている輩と変わらない。私はまだイエス様と出会えていない。
自然発生的というのが“キモ”かと思う。「イエス様を信じろ信じろ!」等と自分に無理やりに強いても、全く意味がない。内側から湧き出てくる思いでないとダメなんだろうと直感的に思っている。信じたいのはやまやまだ。もしかしたら今一番私が欲しいものかもしれない。欲しいものとは、しかしなかなか手に入らないのが常なのかもしれない。
「クリスマスの奇跡」とよく言われる。クリスチャンにとってはイエス様の生誕がまさに奇跡なわけだが、そうじゃない人にも「奇跡」という言葉は神秘性を運んできてくれる場合がある。主に“良い”ことが起こった時に使われることが多いと理解している。「あり得ないことが起こる」とか科学的に説明がつけにくい事象に対して、何かこう、目に見えない力の作用を感じるような不思議な感覚に包まれる。これはそういう“感じる”能力が人間には備わっていることを教えてくれる。厳しい世の中を生きる中で、人々が非日常的な大いなる力みたいなものを感じ取り、ひと時だけ重荷を下ろすことができ心が癒される。クリスマスとはキリスト教に関わりのない人々にも、少し緊張をほぐすような、ちょっとホッとする喜びを提供しているような時間にも思える。
同じキリスト教の中でもカトリック、プロテスタント、イギリス国教会、ロシア正教等々の教派があり、ここからまたさらに様々な無数の宗派に分かれている。しきたりや聖職者になるための資格審査制度なども千差万別にあるらしい。2000年に及ぶ長い歴史の中で、そりゃあ色いろあったこととは思うが、この宗派がたくさんあるという事実が私にはちょっと受け入れられない。イエス様はお一人だ。
神さまは一人一人の心の中にいらっしゃって、受け止め方はそれぞれでいい。しかし自分の受け止め方を「正」とし、他者のものを排除するような信じ方がまかり通っている現状があるならば、教派や宗派は必要ない。解散するべきだと思う。私の知る限り、イエス様はそんなことはおっしゃっていない。そういう違いを超えて、イエス様を中心に皆が手を取り合えば、平和は近づくのではないかと思う。もちろん他の宗教を忌み嫌うことも許されないが、まずはそこからではないだろうか。単純な話だ。世界で最も広く信じられているキリスト教の信者が果たすべき役割は甚大だ。実現が難しいことは百も承知で、そんな奇跡的な願いを胸に抱いた今年のクリスマスだった。
バカ騒ぎ、嫌いじゃないです