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投稿者: | 2021-12-31

 図らずもここ数日、今年の振り返りのような文章になっていた。何となくそういう流れに入っていって、それほど抵抗もせずにそのまま身を任せた感じだ。一年間を通してこのブログを書き続けられたことは初めてで、そうなると当然振り返ることができるのも初めての経験になる。テレビのスイッチを入れると特にニュース番組などで「今年を振り返る」企画を各局で散々放送していて、やはり日本全国そういう雰囲気なのだろう、私もその波に飲み込まれた感じかもしれない。今日は大みそかで振り返りも恐らく最後になる。重い振り返り話になりそうだが、もう一日お付き合いいただきたい。

 今年の最後の聖書研究会で私は新しい課題を突き付けられた。聖書を読む中で「もっとイエスに注目しろ」という難題だ。以前から書いてきているように、本当の意味で私はまだ「イエス様と出会えていない」。神さまは信じていると言える。目に見えない力や繋がりが存在することは私の経験が私に証明している。科学的な証拠は持っていないが、私にはそれで充分だ。
 しかし「全ての人の罪を、十字架に磔にされ、償ってくださった方」であるイエス様の存在がまだ自分の中で確かなものになっていない。そこが一番苦しんでいるポイントでもある。聖書もそれなりに読んでいるわけだし、頭の中では理解しているつもりではあるが、肝心の心がイエス様について行っていない感じがする。神さまを信じられる心のようにイエス様への思いも深めていきたいと思うのだが、未だ“不確実さ”の中にいて、正直どうしていいか分からない。実は神さまへの思いとイエス様へのそれは、また別の心のような気もしている。

 結論を言うと、イエス様と出会えなければダメなんだと思う。キリスト教を信仰している、もしくはクリスチャンであるとは言えないのだろうと思っている。だから洗礼を受けられない。「心の底からイエス・キリストを愛してやまない人」になれなければ、受洗する資格はないと思っている。
 ここまで書いてきて、ちょっと違う考えが浮かんできた。もしかしたらこの自分の中の“掟”みたいなものが私自身を縛りつけ、自由を奪っていて、それが元凶と言うか、私の中の最大の「罪」なのかもしれない。私自身が今なお罪を重ね続ける「律法学者」なのかもしれない。だとすると、聖書の読み方にしろ、今までイエス様へ続く道だと信じてやってきたことは間違いだったのだろうか。

 年末に来て、このことで実は非常に悩んでしまっている。つまり私がこの道だと思って進んできた、或いは進もうとしている道が間違っているかもしれないという疑念が湧いてきた。逆方向とは思わないが……、いや、逆なのかもしれない。もっと根本的に「道」とか「進む」という概念自体が間違っているのかもしれない。
 いずれにしても私は「私自身」を思いや考えの中心に据えて生きている。それではダメなんだろうと感じる。心の中心にいるべきはイエス・キリストだ。言葉だけではなく、この意味を自分の中で育むことができたらと思う。育む性質のものでもないのかもしれないが。ゆっくり落ち着いて考えたい。「考え」を超えた何かが必要な気がする。

 良い年をお迎えください。

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