自分を重ねる

投稿者: | 2021-02-14

 本を読んでいて、もう書いてある全てが難しくて読むのが嫌になる本もあるし、部分的に理解できない場合もある。後者の場合、難しいところを何度も戻って理解しようとするけれどもなかなか心に引っかかってくれなく、終いに飛ばして読んでしまう。飛ばした箇所は、縁があってもう一度その本を読むことがなければ、永遠に記憶には残らないだろう。難しくても何か関心が持てる難しさであれば「?」マークと一緒に頭の片隅の残っていることもあるが、そういうケースは稀だ。

 反対に自分でもびっくりするほどバシバシと本の内容が心に入ってきて、本当に幸せな気持ちになれることがある。まだ終わってほしくないとさえ思う。そういう思いに駆られながら読み進めている自分の矛盾に気づき苦笑してしまう。読みやすく、また好きなのは「小説」だろう。自己啓発本なども小説の形をとってくれていると大変助かる。どんな本でも追体験できなければ、自分のこととして置き換えて考えたり思ったりできなければ、私は楽しくない。「読めない」とか「難しい」と思う場合は、要は私が追体験できない内容の時だと言える。その本に出会うまでの自分の経験や知識、関心、そして最たるは私の「生きる力」が足りなく、その本に追い付いていないということだ。もしくは縁がないか、筆者が考える方向性が私と乖離しているのかもしれないが、認められて「出版されている本」の筆者には私はいつも敬意を払いたい。私の好き嫌いはその後だ。

 いつだったか忘れてしまったがだいぶ前に、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだことがある。惹かれた理由は有名だから。国語で「罪と罰」の作者は?という問題が出た時のために覚えていたが実際に読んだことがなかったので、それでは本当の知識とは言えないと思いトライした。ところが全然読めない。読んでいて退屈であまり面白いとは思えなかった。長いし。何がこの本と作者を有名にしたのか全然分からなく、あえなく一回目のトライは頓挫した。2回目、3回目と数年に渡ってチャレンジしたが結局全て失敗に終わった。また何年か経って読み始めてみると、一気にというわけではなかったが不思議なことに結構楽しんで読み終えることができた。非常に不思議な感じだったのを覚えている。今思い返しても不思議だ。時が満ちたとしか言いようがない。

 「罪と罰」の中で強烈に感情移入できた登場人物がいた。それは主人公ではなく、甚だ脇役のある一人の男だ。家族を養うために職を探すことが急務である境遇にあって、苦労してせっかく紹介してもらった仕事を、彼はなんと自ら手放してしまうという展開があった。彼の中の何が私の心を響かせたのか未だによく分からないが、「期待に応えられない男」、「チャンスに弱い男」、でもそんな自分を「どうすることもできない男」、そんな情けない男の描写に私は自分をオーバーラップさせたんだと思う。あの時その男の気持ちが痛いほどよく分かったことだけは鮮明に覚えている。今でも何故か、不図あの男のことを考えることがある。

 2度、3度読んでみるって大事かも。

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