Fragile

投稿者: | 2021-02-26

 毎朝お祈りをする。十字架に向かって、時間にすると10分か15分くらいだろうか。穏やかでとても謙虚で、なんとも言えない神聖な気持ちになれる。今朝お祈りに入る直前に、一瞬だけ嫌悪感を覚えた。お祈りに入っている時の自分の瞑想しているような清らかな心持ちと、その刹那の心の状態に差があり過ぎた。これからお祈りする時に行き着く“あの境地”に入ろうとするには、ここからでは距離が離れすぎていると感じた。恐らく心が疲れていて、「“あそこ”まで行くのは辛い」と拒否反応を示したんだと思う。自分の心の事ながら、本当に繊細で日々移ろいやすく、取り扱い厳重注意のワレモノだ。

 先日も書いたが、私の行く手に立ち塞がる大きな壁の一つとして、ダブルスタンダートの問題がある。「仕事ならするけど、お金にならないなら何もしない」という、公的な時とプライベートの時と姿勢が180度変わってしまう、自分の二面性に対して悩んでいるという話。正直に言うと、本当の私はこの「何もしないプライベートの私」の方だと思う。普段の仕事の時はムリをして、あるいは自分を偽って頑張っている感じ。それではストレスや疲れが溜まるわけだ。本来の私は怠け者で、できれば何もしたくない、わがままなおっさんだと思う。「そういう自分が嫌で、生まれ変わりたいと思っているおっさん」と表するのが、一番私の真実に近い表現だ。

 これについてもう一つの葛藤が自分の中にある。自分に厳しい“強い自分”は、この問題に憤慨していて、「プライベートでも何でも目の前にある仕事は、お金に関係なくやるべきだ」と言っている。一方で“弱い自分”は少し寛容というか、「仕方がないよね」といった感じで受容している。この「強い自分」も「弱い自分」のどちらも間違いなく現実の私であるが、私が「なりたい自分」ではない。強い自分に味方して弱い自分を駆逐し、“強く”なるのではなく、統合したいと言うか、混じり合わせたいと言うか、昇華させたいと言うか、言葉はまだハッキリ見つけられていない。反対に弱い自分に味方して……といった場合も違う。とにかく「どちらか」ではなく、強い自分も弱い自分も「どちらもダメ」だと思っている。

 祈っている時の自分が一番穏やかだ。その時の自分は、好きになれるような気がする。もっともお祈りの時は、自分のことは全く考えていないし、第三者的に自分を見つめてもいない。後になって思い返してみると、だ。いつ頃からか、この祈りの時の私を日常の生活でも維持できれば、大きめの問題は解決に向かうのではないかと考えるようになった。もちろん難しい大仕事になる。時間もかかるだろう。でももし一番好きな「祈る自分」のままで四六時中いられたら、世界が変わりそうな気がする。それは「生まれ変わる」ことに等しいだろう。繰り返しになるが、現実の世界でそれをやり遂げるのは相当に困難な仕事になると思っている。人生をかけるほどに。

 祈り続けることがダブルスタンダード解決への道!!

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