やりたいこと

投稿者: | 2021-04-03

 追い付けていないという感覚がある。世の中には例えば、環境問題の解決に貢献するためにプラスチック製品を使わないようにしようとか、ジェンダー差別を解消するためにデモ行進に参加しようとか、他国での人種差別政策に抗議しよう等々、「自分だけが良ければいいわけじゃないよね」という思いを実際に行動で主張する人たちがいる。そういう純粋な人々の思いに、私は追い付けていないという残念な気持ちが自分の中にある。どこか他人事で、自分の問題としてリアルに受け止められない。

 「実際に行動したい」という気持ちはある。確かにある。そんな自分に憧れたりもしている。なりふり構わず、これだ!と思ったものに猛進する姿勢は、自分でもっとも自分らしい姿のように思える。単細胞というか、シンプルというか、変化球に弱いというか、応用が利かないというか、情熱的というか。そんな不器用な自分に愛着を感じるのは事実だが、知恵を授かってしまった今、もうアホのフリはできない。欲望から遠い場所にある“良い”知恵だけを選べれば良かったのだが。

 やらなければならないことを決めるのは誰だろう。やるべきこととして判断を下すのは誰だろう。そしてやったことに対して責任を取るのは誰だろう。やるべきこと、やらなくてはならないことなんて、そもそも無いんじゃないか。コレをするけどアレはしないというような個別の行動ではなく、あるのは心の底にある、『真にやりたいこと』だけのような気がする。あとは枝葉だ。それを見つけ出会えたなら、「追い付けていない」などと不安定な気持ちに脅かされることなく、“ブレ”なくなると思う。自然と体が動くだろうし、行動するという形ではなかったとしても、何をしていようとも幸せな心持ちでいられると思う。そのとき初めて「自由」という言葉に出会える予感がする。“アホ”に成り切れると思う。

 今私はこうして「書くこと」ができている。書き始めて早4カ月が経ったが、大概が三日坊主の私にとっては、ちょっと驚異的に続いている。実際外に向かっては何も行動できていないが、これは個人的には内なる大冒険だ。私だけの力で続けられているとは到底思えない。
 書くことは今私にとって、祈りであり、生きがいであり、学びであり、気づきであり、感謝であり、支えであり、愛であり、『やりたいこと』である。
 「やらなくてはならない」と自分を縛り付ける必要はない。決めつけなくていい。だいたいそんなことは自分だけで決められることではない。行動できないと嘆くよりも、自分の心を掘り下げる方が優先だ。焦らなくていい。時は必ず満ちる。準備せよ。耳を澄ませ。力を蓄えろ。学べ。

 ハァ、ハァ、なんか暑い…。

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