「信心」を突き詰めて

投稿者: | 2021-04-14

 「『確固たるもの』が欲しいのだと思う。揺るがないもの。譲れないもの。信念。軸足を置く場所。立ち返る場所。他の全てを失っても死守できるもの。これしかないと思えるもの。呼び方は様々あるが、一つの同じことを差しているつもりだ。これを授かりたいと思ってもがくけれども、自分の欲望や弱さが邪魔をする。そしてこれを乗り越える勇気や覚悟が足りていない。」と、こういった理解が今まで私の中では支配的だった。けれどもこれに少しずつ変化が起きている。

 一つは「確固たるもの」へのアプローチの仕方の問題。私はこの正体が、ゴールが分かってきている気になっている。完全ではないにしろ、進むべき方向は定まってきていると過信している。これは多分に私の“理想”と“律法学者的な考え”が影響を与えてしまっているように思う。今までの経験の中で、見たり聞いたり感じたりしてきたものの中から、カッコいいとか素敵だとか私もああなりたいとかという理想の形が築き上げられ、そこに考えが凝り固まってしまい、疑ったり検討する余地を持てなくなってしまっている。さらに「こうでなければいけない」という無意識の束縛が、神さまからの呼びかけに耳を塞いでしまっているような気がしている。
 言葉にすれば、それは「信仰」だ。神さまへの無条件の委託。しかしそれはまだまだ“私の言葉”になっていない。いわば受け売り言葉にすぎない。私は信仰をまだ知らない。知った気になっての発言はできないと思う。まだまだ信心が足りていない。信仰は厳しく修業を積めば獲得できる性質のものではなく、恩師が教えてくれたように、賜るものなのだと思う。私はまだ何も知らない。

 もう一つは「愛」の問題。最近は「欲望が強すぎる自分」、「頑張れない弱い自分」、「不安を乗り越える勇気がない、情けない自分」、「いつまでもグズグズ覚悟がない自分」等々、ダメな自分を受け入れられるようになってきた。開き直ってきた。愛せるようになってきた。愛おしくなってきた。「オレなんて、こんなもんだ」と、諦められるようになってきた。
 私はこの兆候を歓迎している。やっと自由になってきたような感じだ。仕方がないよ、と。歳を取って勢いが衰えてきたと言われれば否定できない。でも誰かが言った、「歳を取るのも悪くない」が、初めて少し共感できるような気がしている。今までは「できない自分」を責めてばかりいた。そりゃ苦しかったはずだ。もっと自分を愛したい。

 「確固たるもの」が欲しいと思う気持ちには変わりがない。使命とも言い換えられる。それは人生をかけて探すものだったはずだ。だとすればやはり今から知った気になっているのは“うまくない”だろう。そんな風に気持ちが変わってきた。
 自分を愛することに少しだけ気持ちが向くようになっている。意識している。あまり甘やかすといい気になってまた失敗するので慎重にやらないと危険だが、やはり自分を愛せないのに、他人なんて愛せるわけはないかなと思う。もちろん神さまも。

 「私は信仰があります!」って、いつか言ってみたい。

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