Belonging to

投稿者: | 2021-04-23

 どこかに「所属している」という環境は安心感をもたらしてくれる。反対に、例えば職を失い、会社にもどこにも籍がない状態は、長く続くと精神的な不安定さを引き起こしやすくすると思う。不本意にも、何度かそういう状態になってしまったことがあったので、身に染みて分かる辛さだ。
 幼い頃から高校・大学までは、一般的には所属している団体が常にあるわけで、“所属していない”感覚はほとんど分からないと思う。だから若いころはその何気ない日常の有り難さに、なかなか気づくことができないのは当然かもしれない。長くかかる病気やケガをしたり、悪いことをして停学になったりすると、ある意味で気づくチャンスがやってくる。ありきたりのつまらない平凡な毎日が、何とありがたいことかと。またアルバイトをしたり、ボランティア等で学校の外で活動することがあったりすると、学校という世界の“ゆるさ”や自分が守られているという“安全性”に改めて気づくかもしれない。
 私は高校時代に「クラッチ」というものが何なのかも知らず、ただカッコ良さそうだからという理由で、中型バイクの免許を友達に誘われるがままに取りに行き、教習所で鬼教官からこっぴどい目にあったことがある。確かちょっと学校がつまらないと思っていた時期で、バイクなんかに気持ちが向いてしまったのかもしれない。その後は「なんて学校って温かいところなんだ」と、恥ずかしながら自分でもびっくりするほど、コロッと変わって感謝したことがある。酷い経験だったが、気づけた部分では無意味ではなかった。

 考えてみれば今私は、私が立ち上げた自分一人の会社に所属しているが、実際はどこにも所属していないと言える状態だ。18年目?まぁよくここまで生きてこれたもんだと思う。一人の会社だけれども、取引先のお得意様に支えられて、食べさせてもらっている。もちろん頑張ってきた自負はある。だからこそ契約が更新され続けてきたし、しばらくは大丈夫かなと思う。
 しかし今は健康に働けているが、一寸先は分からない。生命保険にも入ってはいるが、例えばガンを患ったとして、支給される金額は生活レベルを保つには充分ではないだろう。どこかの企業に所属していれば、保障の内容はもっと違ったはずだ。歳を取ってきて、「本当にこれで良かったのだろうか」と振り返っているというのが正直なところだ。

 いわゆる“挫折”なく、トントン拍子で人生を歩んできた人、つまりどこにも所属していない時期がなかった人たちは幸せだと思う。所属していない辛さ、社会から阻害された不適格者として扱われるような惨めさを経験していながら、だがしかし、私は敢えて勝負に出た。所属すること、言い換えると「雇われる」ことを拒んだ。雇われることが嫌なのではなく、「自分で責任を背負いたかった」という方が合っていると思う。
 実際、では独立したからと言って、物事が自分の思い通りになるなんてことは無い。お客様と共同作業をしている以上、ご意見は尊重するし、ほとんどの場合は服従だ。責任もあちら様。また経費の使い方だって、頑張って稼いでも、会計法や消費税法等にがんじがらめで、自由は全然きかない。決算作業に関しては、何故か税理士の言いなりだ。

 何だか愚痴の書き殴りにみたいになってしまった。申し訳ない。しかしこのように現実は厳しいのだが、所属していない不安定さ・恐怖感を抱えながら、生涯現役が目標であるし、もうひと頑張りしたいと思っている。逃げずに勝負し続けたいと思う。どんな形か、業態に変化が訪れるのかどうか分からないが、タブーを設けずに、全ての可能性を活かして行ければと思っている。そして一日も早く、「神さまに所属している」と言えるようになりたい。

 自動二輪は大学に入ってから取りました。

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