「真似る」ことは必要なことだと思う。「人の真似なんかしてないで、自分の頭で考えろ!」なんて言う人もいるが、初めて何かに取り組むときは、まず先人を真似るところから入っていくのが常套手段だと思う。何も恥じることはない。慣れてきたら徐々に自分らしさを出していけばいい、というか、自然と自分流になっていくものだと思う。
私は第一子なので、父親はそんなに遊んでくれるタイプではなかったし、幼いころは真似る対象が近くにいなかった。年上の従兄に会えた時は、くっ付いて行ってよく遊んでもらったものだ。あ!、今気づいたのだが、従兄たちとよく野球をして遊んでもらっていて、私は本当に小さかったのでうまくプレーできず、悔しい思いをたくさんしていた。私が人生の中でとても大切な経験として捉えている「野球」に興味を持ち始めたのは、まさに従兄を真似ることがきっかけだったのだ。そうか。
だいたい何でも真似からではないだろうか。好きなタレントの音楽やファッションを真似てみたり、先輩の後にくっ付いて所作を窺ってみたり、一本足打法に挑戦してみたり。
大人になってカナダに渡ってからも、友達になったカナダ人の喋り方を真似た。むしろ意図的に、「完全にコピーして盗んでやろう」くらいに考えていた。英語だけでなく、笑い方や手足の仕草まで真似ようとした。その方法は功を奏したと思う、だいぶ上達した。誰にも迷惑をかけない有効な方法だった。カッコつけて、何かを躊躇している場合ではなかった。
何かを習得しようとする時、恥じらいや遠慮のような精神的な「ためらい」が邪魔をすることがあると思う。よく言えば、「慎ましさ」とか「お行儀よく」みたいなことだろうか。私の感覚で言うと、「“日本人らしい”控えめな態度」である。そういう概念・精神が存在することを知りつつ、本気で何かに取り組むときは、きれいさっぱり捨てるべきだと思う。人によってはそれをプライドや誇り、または品性などと呼ぶことがあるけれど、私はまやかしだと思う。恥をかくことが嫌なだけ、自分が失敗するのが恐いのだ。
私も恐かった。今でも恐い。人に嘲笑されるのが恐い。でもそれは自意識が過剰なだけなのだと思う。自分が人からどう見られるかを意識しすぎている。考えてみれば、私は映画やテレビドラマの中で、なりふり構わず目標に突進する主人公に憧れ、虜になってきたではないか。そして自分もそうなりたいと願っているではないか。なかなかそう開き直れないのが現実ではあるが、その自意識の壁を突き破る努力はしていきたいと思う。それに自分が思うほど、他人は私を見てくれてはいない。
何かに夢中になれた幼い日々は、人の目などは気にする感覚すら知らなかった。いつの間にか知恵と呼ぶのか、色気づいてきたと言うのか、皮肉にも自分が自分の人生の舞台で主人公ではなくなってしまっていった。
かつて女性が好みの男性のタイプを聞かれたときに、「少年のような人」と答えるのをよく耳にした。最近は少し事情が違うかもしれないが、あれはそういうことだったのかなと思う。
何でも真似したよな~、月光仮面とかね。