Magical Time

投稿者: | 2021-06-03

 「待つ」ことがあまり好きではない。行列ができるような人気の食べ物屋さんでも、一人で待つくらいなら、待たずに食べられる違う店で食べた方がいい。「せっかち」という感じではないけれど、特に仕事が絡んでくると「待てない傾向」は一層強まってくる。インターネットでホームページを見ている時なんかでも、ネットワークやマシンの調子が悪かったり、ページが重かったりして表示に時間がかかるときは、舌打ちをしながらイライラしている。ほんの2~3秒の話だ。急いでいる時の赤信号が待てない。医者に行ったとき、待合室での間が持たない。カップラーメンの3分が待てない。古くなったコンピュータがなかなか立ち上がらない。届くはずのメールの返信が来ない。待てない尽くしでやっぱり私は「せっかち」かもしれない。

 ところがこれが一人ではなく、友人などと一緒にいる場合は随分違った様相を呈してくる。待ちながら「話」ができるのなら、たとえ道端でも、その時間は喫茶店で話しているのとあまり変わらない感覚になれる。待てるのだ。例えばアミューズメントパークに行くと、アトラクションに乗るのが主な目的だったりするのだが、一日の中で一番長いのは乗り物に乗るために「待つ」時間だろう。もはや「待つ」ために遊園地に行くようなものだ。それでも楽しめるのは家族や友人などの好きな人たちと、一緒にいる時間を持つことができるからだと理解している。単なる待つ時間がコミュニケーションを深めるチャンスに変わるからだと思う。たとえ私が熱狂的なミッキーマウスファンだったとしても、一人でディズニーランドに立つ姿は想像すらできない。

 「あッという間に時が過ぎる」という感覚があると思う。楽しい時間を過ごした後によく言われることだ。楽しいこともあるだろうし、何かに一生懸命取り組んだ結果、充実した経験を積むことができたと実感できた時にもそういう気持ちが生まれると思う。「人は生まれたときから死に向かって生きていく」と言い換えられる。誰だって長生きしたいと思うだろうし、私もそう願っている。そういう意味ではあッという間に人生が過ぎてしまっては困るわけで、ここに矛盾がある。私は非常に健康で、歳を取ったと言っても、さすがにまだ死を身近に意識する年齢には至っていない。だから思うのかも知れないが、極端な言い方をすれば、ただ単に呼吸だけして長生きするのは嫌だ。あッという間な時間をたくさん経験したいと思う。その上でさらに長生きを望むのは欲張りすぎるだろうか。

 私は非常に孤独な人間だと思っている。精神的にもそうだが、現実の世界で人と接している時間よりも一人でいる事の方が長い。しかしあッという間の魔法の時間は、一人で作ることはできない。自分と向き合ったり、神さまにお祈りを捧げたりする「一人になる時間」は極めて大切だが、それだけでは自分を磨けない。恐れず意欲的に人と関わっていきたい。そうすることが私の人生により強い力を授けてくれる。

  何だかいつも同じ“結び”になっている気がする。

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