「健全な精神は健全な肉体に宿る」と教わったような気がする。だからと言うわけではないが、子供の頃は一生懸命に走ったり鍛えたりと、運動を真剣にすることが崇高な行いであるかのように感じていた。頑張っていれば何か立派な人になれるような、“約束”があるような気がしていた。果たして約束は守られたと言えるのだろうか。
この言葉の本当の意味合いは諸説あるようだが、いずれにしても私が思っていたような武士道的な教えではないらしい。私は身体を厳しく鍛錬して追い込むほどに心も鍛えられ、心が強くなればさらなる肉体的な試練に耐えられるようになり、より厳しい修行に臨むことができる。そのような鍛練を介した心と身体の「相乗効果の上昇スパイラル」があるのだと盲目的に信じ込んでいた。
一節には古代ローマ時代のグラディエーターたちの行いが、闘技場を離れた普段の生活の場において余りにも野蛮だったために、「健全な精神が健全な身体にも宿って欲しいな~」というような、願いがこもった言葉だったという節がある。あるいは願い事をするときはあれもこれもとのべつ幕無しに願うのではなく、心と身体の健康を願うだけで充分で、それ以上欲張ってはいけないという戒めの言葉であるとの解釈もある。どれが正しいのだろうか。
どれが正しい解釈かは問題ではないのかもしれない。現に私は間違った理解を受け止めたまま育ってしまい、少なからずその間違いに元気づけられて、歯を食いしばることができた場合があった。その経験が今の私を支えている一部になっていることは疑いようがない。「健全」とは何かという別の問題が今なお残されたままだが、私は半分くらい“約束”は果たされたのかなと思っている。自分が「健全な人間になれたよ」と曇りなく自負できる日が来たとしたら、その時は胸を張って「健全な精神は健全な身体に宿るんだよ」と子供たちに伝えたい。
一般には間違っているとされている教えや考えでも、自分が正しいと本当に信じられるのなら、伝えたり行動したりすれば良いのだと思う。自分の真実を開示していくべきなのだと思う。それがひとつ一日を誠実に生きることになると信じる。自分と向きあってそれが間違っているかどうかを揺さぶる作業は、毎日のように必要かと思う。でも正しいと信じられる限り、周りが何と言おうと伝え続けるべきだと思う。そういう強さを持ちたい。
他者に無理強いしてはいけない。押しつけてはダメだ。でももしかしたらいつか一人二人と、共に歩いてくれる仲間が現れる。そしてそれがみんなの真実になっていく。そう信じたい。
誰かが言った、「嘘も三回言えば本当になる」。信じている真実が嘘ではないことを祈りたいが、それはまだまだ分からない。でも一般的には嘘でも、私にとっては真実なことだってありうると思う。誰だか知らない“一般的”な人たちの方が間違っている場合だってあるじゃないか。恐れずに勇気を持って。神さま。
今でもどこかでその言葉、“間違い”を信じている。