Passion

投稿者: | 2021-06-19

 何か新しいことや今までと違うことをやろうとした時、形にこだわりすぎて前へ進めなくなってしまう。「こうでなければダメ」だとか「こうであるべき」だとか、やってみなければ分からないことをあたかも最初から知っているように考え振る舞い、トライする前から自分にブレーキをかけてしまう。プライドが高いからというより、新しいことにチャレンジすること自体に怯えているようだ。「やらなければ自分が傷つくことは無いし、自分に絶望することも無い」と思うのだろうが、結局は「できない自分」に失望している。それが私の真実。何とも情けないが、今はそういう自分を認め、受け入れている。

 自分を第三者的な視点で見ることは大切だと思う。特に私は感情的で単純な性格で、一度何かを信じ込んでしまうとなかなか抜け出せなくなる側面がある。客観的に物事を見ることができなくなりやすい。「感情」は私という人間をつくる最も大切な要素の一つだと思うが、感情の赴くままに生きてきたわけではない。一人では生きられない。感情を中心に置きつつ、冷静な判断は常に必要だと思う。感情と折り合いをつけて、その時点で正しいと思える判断を下すまでに、しばらく時間を要することがある。時間がかかるほどに辛い思いをする場合があるだろう。自分と向き合うことが辛い時があるだろう。人生はかくも厳しい。

 湧き出てくる感情をコントロールすることはできるのだろうか。自分が感じたい感じ方、あるいはこう感じるべきだと思う感じ方を、自然とできる自分を作ることは可能なのだろうか。そういう自分に制御して変えていくことはできるのだろうか。私は今のところできない。出てきた感情にどのように対応していくかという方法をあれこれと研究している状態で、それは第三者的な対応と言えるかも知れない。あくまでも感情は私という素の人間が抱く、少なくとも私には表れ方を制御できない純粋なもので、冷静な自分とは分離した存在に感じている。
 感情があるからこその自分で、反対に言うと、もし制御できるようになったらそれはもうサイボーグか何かの人工物だろう。しかし、「自分が変わる」ということはそういうことなのかなと思う。サイボーグになると言っているのではない。「制御」という言葉は冷たい感じがして相応しいとは思えないが、自然発生的な感情・思いの表れ方や種類に変化が起きてくる。それが「自分が変わる」ということなのではないか。

 「自分を変えたい・変わりたい」と思っていたし、今はそんなに強くは感じないけれど、まだ確かにもっている。生まれ出る感情そのものに変化が起きることを目指すべきなのか、出てきた感情に対応する方法をもっと学ぶべきなのか、あるいはその両方か。道はまだ果てしなく続くだろうが、いずれにしても今は「自分が変わる」ことが目指すべき目標ではないような気がしている。それよりも自分に課している鎖をほどいて、もっと自由に本当の感情に気づくことの方に重心が移っている。自分が本当は何を思う者なのかもっと探りたい。

 超自我と恐れが強すぎて己が見えない。

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