No Difficulty No Happiness

投稿者: | 2021-06-21

 結局、苦しみの中からしか喜びは生まれないのかなと思う。苦しむのはやっぱり嫌だし、だから苦しむと分かっていて何かをするのは、非常に勇気が要る辛い作業だ。苦しまない方に逃げたくなるのはむしろ自然ではないか。しかもそれは永遠に続くように思える。乗り越えて一つ喜びを得られれば、また次の試練が待ち受ける。ずう~っと喜びたければずう~っと挑み続けなければならない。また恐らくは達成できない、人生をかけて挑む大きな目標もあるだろう。たぶん、人生はかくも厳しい。

 一見苦しそうに見えたり、苦しいと思ったりしていた作業が苦しくなくなることがあるのかと思う。もしくは端から見ると苦しそうだが、本人は全く問題にしていないということもある。「何を苦しいと思うか」という違い・問いだ。私の場合、一概には言えないが、何かに夢中になることができている時は苦しいとは思わないのかと思う。終わった後になって大変だった、苦しかったと振り返ることはある。
 ある大きな仕事を担当したことがあった。当初はあまりにもやらなければならないことが多すぎて途方に暮れ、まさに嫌だったが、やり終えた時にはこの上ない達成感という喜びを味わうことができた。もしもう一度同じことをしろと言われれば、お断りするかも知れないくらい大変な仕事だったが、しかし苦しみながらも、確かにあの期間、喜びを感じながら努力できていた。信頼する仲間と一緒に素晴らしい仕事に邁進できて、とても幸せな時間だった。終わってしまってあんなに大変だったのに、精神的に“ロス”に陥った。いつの時点からか、それはもう「仕事」ではなくなっていたんだと思う。

 「嫌い」な苦しみから「好きな」苦しみへ変化していくならいいとして、問題は反対の転換もよくあるということだ。大好きだったことが嫌になる、苦しみに変わるということ。経験を積んだせいか、他者の意見からの影響か、自分自身の方が変わっていることに気づかず、取り組みながらも違和感を持つことがある。成長と捉えられればいいが、動揺することも多いかと思う。そういう不測の事態も含めて挑戦していく営みは「苦しみ」を伴うものなのだろう。自分が何を思い、どう感じるかは、やってみないと分からない。歳のせいか、やみくもに何でもやってみることはしなくなった。それでも色々手を出している方だとは思うが、本当にやりたいことかどうか、自分の心によく向き合って挑戦する内容を決めている。

 では「やってみる」ための勇気はどこから得られるのか。やはり喜びを感じて生きていきたい、自分なりに生き甲斐をもって生きたいと思う。恐らく喜びと苦しみの大きさは比例する。大きな喜びは大きな苦しみからしか賜れない。苦しむことを知りつつ突っ込んでいくのには、私は、とても大きな勇気とモチベーションが必要だ。
 日々の幸せに気づくことができる力、今日を喜べる力、そしてもっと喜びたいと強く求められる力を養っていきたいと思う。今考えられることは、日々の恵みに感謝すること。多分そこからしか始められないのではないだろうか。

 今日は久しぶりに苦しんだ

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