きっと大丈夫

投稿者: | 2021-06-23

 相手のご機嫌を窺うような感じじゃなくて、初めて会った人でも精一杯の愛と関心を持ち、それを表しながら、笑顔で接すれば大丈夫なんじゃないだろうか。今自分で「大丈夫」と書いて、大丈夫って何がだろう?と考えてしまった。大丈夫って何だろう。
 相手の機嫌を損ねないことが大丈夫なのか。自分を受け入れてもらうことが大丈夫になるのか。とりあえず波風立てずにその場を凌ぎ切ることに、「大丈夫」の重点が置かれている気がする。即ち自分の存在が脅かされずに精神的・環境的に「安定」を保てることが最優先であって、私のこの“外交政策”は、その安全で小さな範囲内だけでの小手先の行為に過ぎないように思われる。本当に私がやりたいことはそんなことなのだろうか。

 アプローチの仕方は間違っていないと思う。持てる限りの他者への愛を表現して接する以外に、私には良い方法が浮かばない。事前に何かの策を練ってうまく関係を構築させようと考えること自体、すでにそこには愛が無いように思う。そのような方法で他者へアプローチしたいと思うのは、大丈夫の概念のいかんに関わらず、現時点で私の真実であることは揺るぎがない。要は目標をどこに置くかだと思う。自分が傷つかない範囲での交わりと、そこを取っ払って「自由で危険」な広い世界での交わりとでは、使う言葉や笑顔の種類なども違ってくるのではないか。つまり仲良しグループのメンバーを増やすのが目標か、それとも未知を恐れず「真の平和」を目指すのかということだと思う。
 そう考えると「なぜ新しい人たちと交わりを持ちたいと思うのか」という理由を反対方向からも探ることができる。そう、平和をつくる一員になりたいから、交わりたいのだ。

 今までどうしてもしっくりこなかった。「仲が良く、接していて気持ちがいい仲間を増やすために私は頑張ろうとしているのだろうか?」と、長いあいだ疑問だった。仲間が増えることはもちろん大歓迎だ。これほど心強く頼りになる存在はいない。でもそれは結果的に目指す方向が近かったからそういう関係になれただけで、世界にはベクトルが違う人の方がきっと多い。その「違い」という分厚い壁に挑む覚悟があるかどうかが問われていると思う。

 日本の中だけでも様々な「違い」が存在する。恐らく私には理解が及ばないような考え方を持っている人たちがいる。政治的な思考や信じる宗教の違い等からその他の人々と生き方を隔てる人たちがいるし、精神的な病気を患っていると言えるレベルの人たちもいる。さらに世界へ目を拡げれば、もはや「違い」は混沌としているだろう。何が、誰が正しいかということは分からない。誰と共に生きれば良いのかは分からない。
 自分にとっての真実を揺さぶりながら生きてゆく。心を開いて笑顔で接するように努める。それが私にとって簡単ではないことは、私の人生が証明している。少しずつでいいから、たまに引き返してもいいから、“私の前へ”進みたい。神さまがついていてくださるから、きっと大丈夫。

 違いは恐いね~

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