痛別

投稿者: | 2021-06-29

 自分の中だけでも色々な考えが渦巻いていて、極端に言えば、今日と明日は考え方が変化しているかもしれない。そのくらい自分の中にさえ多様な思考が散見できる。ブレないようにしたいとはもちろん思っているが、そこは「絶対ブレない」とは言い切れない。反対に「私は絶対にブレない」という人がいたら、私は、その人をあまり信用できない。
 多様性を受け入れることはそんなに簡単ではないと思う。自分の生活に関わる事象についてであればなおのこと、異質なものには警戒心が働く。要は自分が嫌悪感を抱くような考え方を許容できるかどうかということ。言葉で「多様性を尊重する」というのは聞こえはいいが、実際はあらゆる場面で美辞にすぎない状況だと思う。

 では多様性を受け入れるとはどんな生き方のことだろうか。色々考えを巡らせてみるけれども、乏しい私の知識・知恵の中からこの難解な問いの答えを導き出そうとすると、やはり「『私の』キリスト教の信じ方・理解の仕方」が一番私自身に説得力を発揮する。一番自分を納得させられるというか、スッと胸に落ちてくる。
 人間一人一人は神さまの大切な創造物であること。一人一人の生命は神さまから賜ったものであり、神さまの前でみんな平等な存在であること。一人一人に神さまからの意味ある使命が託されていること。そして一人一人は神さまから真に愛されている。こうした内容を信じ切って、心身を全く委ねることができれば、人生は相当に自由なものになると思っている。敵対する考え方さえ愛することを可能にするのではないかと思う。

 言論の自由を守ろうとする動きが活発化し、人々は多様な意見を享受する自由を訴えている。人々が自分たちの権利を主張する権利はあるはずだし、それはそれで大切で必要なことだと理解している。そういった市民運動が政治を、世界を動かしたケースもあるだろう。
 そのことを踏まえた上で敢えて私が思うのは、「多様な意見を認めない」という意見も歴とした一つの意見であること。つまり多様な意見を認めろと言うのであれば、「多様な意見を認めないという考え方」も認めて、同じテーブルに乗せた上で議論していかなければならないと思う。今問題になっている原因は、一方が一方的に力で他方を弾圧する方向へ進んでしまっていること。私に言わせれば、どちら側からも愛のあるアプローチが見えてこない状態に陥っている。「人間は神さまの前で誰もが平等である」という教えをみんなで本当に共有できれば、道は開けてくると思うのだが。

 「理想を遠くから語るだけであれば、誰にでも簡単にできるよ」という声が聞こえる。全くその通りだ。私の考え方もキリスト教の押しつけだと言われてしまえば、返す言葉が見つからない。でもやはり自分の意見を持つことは大切だし、考え続けることは止めてはいけないと思っている。実際に何も行動はできていないけれども、心の底から湧き出てくる思いや言葉なら、それらをこの場に記していきたい。

 最近は世界各地で、きな臭い

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください