相乗効果

投稿者: | 2021-08-11

 非日常というか、近頃いつものルーティン生活から外れたくないという気持ちが強くなっているような気がする。安定を好むようになったというか、いつもと違うことをしなければならないことがしんどくなってきたというか、面倒臭くなってきたというか。例えばプライベートのことで言うと、昔は仕事が終わると毎晩のように夜の街を飲み歩いていたのに、今は直帰する。たまの週末の飲み会も、参加してしまえば楽しいのだが、行く前の準備やスケジュール調整が面倒になってきた。今はコロナもあって、最近いつ出たか覚えていない。コロナが体のいい言い訳になっているとも言える。

 週末の飲み会のような個人レベルの小さなものも含めて、仕事かプライベートかも全てひっくるめて、日本人は大変な行事好きだと思う。日本人だけかはちょっと分からないが、それこそかつての「♪日本全国酒飲み音頭」で歌われたように、正月やお盆など全国共通の何かしらのイベントが月に一度程度はある。その他、挙げようと思うとどこから手を付けていいか迷ってしまうほど、非日常は日常の中に溶け込んでいる。職種や個人の性質によっては、非日常のために日常があるような生活を営む人もいることだろう。そこに生きがいを見出している人たちもきっといる。そうすることで社会にリズムが生まれ、人々の生活に強弱というかメリハリがつくのかもしれない。恐らくイベント・行事は必要なものだと思う。

 いくら日常から離れたくないと思っていても、本当に非日常がなくなってしまったら、恐らく生きる希望を失ってしまう。非日常があるから日常に執着したいという気持ちが生まれるのだと思う。他方で、同じことを毎日繰り返すことは、それはそれで大変なことだ。誰もが簡単にできることではない。そこにはそこの戦いがある。
 若い頃は平凡な毎日に満足できず、何かの刺激を求めてイライラしていたように思う。その現状を打破する術を持たない自分にも苛立っていた。時が経って、思いは変われば変わるものだ。しかしどうしてそう思うようになってきたのかと考えると、理由は歳を取って体力・知力が落ちてきたからだけではないように思う。
 一日一日の恵みに感謝する気持ちと大切にできているという実感が根付いてきたような感じがしている。言葉にするのは易しいが、実行するのが困難なことは世の常だ。一日一日を誠実に生きようと志してからしばらく経ち、甚だ道半ばではあるが、少しできるようになってきたのかと今思った。その過程にあって、今、非日常の案件を放り込まれることで、せっかくの積み重ねが崩されてしまうことを内心どこかで恐れているのかもしれない。だからその道を阻む余計なものを排除したいような気持になっているのかもしれない。

 そう思うと、だがしかし、それではダメなことは明白だと気付く。人は人と人との間でしか自分を磨くことはできない。これまでも書いてきたように、新しい刺激を拒絶することは私の行く手を遮る行為に他ならないと思う。
 日常のしっかりした営みの基盤があってはじめて、行事にしっかり臨めるはずだ。「基盤ができるまで放っておいてくれ」という気持ちも分からないではないが、恐らくそれは本末転倒で、「行事が基盤を」、「非日常が日常を」力強く育ててくれるもののような気がしている。

 人生はきびしいね

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