Criticism

投稿者: | 2021-08-21

 私は一度誰かを嫌いになってしまうと、手が付けられないほど嫌いになってしまう。もう自分ではどうしようもなく嫌いな気持ちを抑えられない。会うことさえ嫌で、言葉は交わさずとも部屋なりの同じ空間に同席すること自体に拒否反応が出てくる。俗にいう「顔を見るのも嫌だ」というやつだ。対応策は会う機会を消滅させること。徹底的に避ける。これが一番だ。できれば存在すら忘れてしまいたいと思うことさえある。今までの人生で5人くらいはいただろうか。
 そんな自己本位の私だが、普段は人を信じやすく疑わないタイプの人間だと思っている。騙されやすいとも言えるかもしれない。知らない人であってもどこかで、「同じ人間なんだから、そんな悪いことをできるはずがない」と思っている。

 政治家の批判をしている記事をよく目にする。政治家というか「政策について」になるのだろうか、随分と辛らつで或いは厳しい調子で書かれているものが多くある。「政治家は私たちの税金から給料が出ているから」とよく言われるが、問題はそこではないように思う。彼らの給料については、私たち市民のために正義を貫きつつ、誠実に一生懸命仕事をしてくれている人たちへの当然の報酬だと思っている。額が妥当かどうかはちょっと分からなく、あまり興味がない。問題は彼らが正義を貫かず誠実さに欠けた仕事をする時に発生するのだと思う。
 例えば嘘をついた時。私腹を肥やす目的や保身のための嘘は言語道断だが、己の政治信条や理想実現のため、或いは犯してしまった間違いを取り繕う等のために嘘をつく、もしくは欺こうとする政治家及び政党には、国民の厳しい審判が下る。そうあるべきだと思うし、そういうことなら私も先頭に立って批判したい。

 しかし今日言いたいのはそういうことではなく、政治家の先生方が「これが正義だ」と信じ抜いて誠実に行ったことが間違いだった場合のことだ。心に一点の曇りもなく一生懸命に尽くして、結果失敗に終わった時、私は彼らを責めることができない。「無能だ」と言って責任を追及する気になれない。「税金をもらっているくせに間違った方法で政治をしやがった」と糾弾できない。私は間違っているだろうか。

 盲目的に国民がお上に従った結果、先の大戦を引き起こしたんだと思う。もしかしたら私のような“疑えない”人間が戦争を作った原因なのかもしれない。一人一人が自分の意見を確立するべきで、それを公の場で主張する必要がある場合もあるだろう。そして指導者たちへ監視の目を向け続けなければいけないのだと思う。監視はするべきだが、しかしどうしても私には、日本のリーダーたちがこんなにも厳しい批判に晒されながら、不誠実な仕事をしているとは思えないのだ。もしかしたら彼らには指導能力も判断能力も知恵も何もかも、充分には備わってはいないのかもしれない。しかしそのことを生身の人間に対して責めるべきなのだろうか。
 もちろん指導者たちがいい判断、いい政策をしてくれるに越したことはない。切に願っている。ただ彼らも私たちと同じ、か弱くて無知で憐れな人間の一人であることを忘れてはいけないのではないか。そうでなくても彼らは「落選」という名の池の縁に、常に立たされている。

 念のため、与党を支持している訳ではありません

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