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投稿者: | 2021-09-10

 反対に、「空気を読む力」が今まで自分を支えてきたと言う部分があると思う。自分と他者、或いは自分と世間との「距離」をできる限り正確に測りながら生活をしていくことを「安定」の基盤として生きてきた。それが恐らく危険や衝突を避けるには一番安全な方法かもしれない。私はそれを嗅ぎ分け、安全に“うまいこと”生きてきたようだ。本当はこう思うんだけれども、それを口に出すと自分が否定されたり、諍いが起きたり、そうするとわだかまりや遺恨に繋がることもある。そうなることを避けてきた。
 それのどこが悪いのかと反発したい側面もある。平穏無事に日々の生活を送り、周りの人間に特別に影響を与えることもなく、それなりに安定して平和に暮らせているではないか。全く問題ないではないか。

 でもどこかで虚しいのだ。心の奥のどこかに暗くて深い「穴」が空いている。その穴の存在に気づいていながら、見ないようにしてきた。むしろ表面的には存在すら認めようとしなかった。数年前に聖書を本気で読もうと決めたことは、その穴の存在を認め、「どうしてそこに穴が空いているのか」という理由を探し始めようと決意したということ。そういうことだと、思う。
 つまり「自分のことが分からない」ということだ。どうしてそう思ってしまうのか、何故落ち込むのか、急に元気が出てきたのは何が原因なのだろう等々、自分の事なのに分からないことばかりだ。今日はこうだったけれど、明日は違うかもしれないし。自分の事さえこんな具合なのに、他人のことなんて分かるわけがない。

 不思議と胸にスーッと気持ちよく落ちてくる言葉や理解に、より多く出会うようになった。今まで見ようとしなかったり、出会おうとしなかったりしていた対象に心が向かい始めたからだろうか。私の心のアンテナが方向を変えたか、受信範囲を拡げたかだと思う。他人事のようだが、ホントにそんな感じだ。その新しい出会いの少しずつの折り重なりが、「穴」の秘密の解明に導いてくれていると何となく感じている。また新しい出会いばかりではなく、過去に出会った言葉や出来事が新しい刺激を受け、異なった理解・気づきを生み出し、重なりに厚みを持たせ始めてくれたことにも驚きを覚える。
 まだまだ道半ばで、行く道は果てしなく続くように感じているし、そもそもこの道が私にとって正しい方向に向かっているのかさえ分からない。それを日々確かめながら歩みを進めることが大切で必要な事だと信じている。

 そうやってゴチャゴチャと色々考えながらの毎日が続いているが、自分がやっている行為に対して「これは人の為に役立っていることか?」と自らに真剣に問うてみることが、一番効果的かなと最近思っている。そして「人の為になってる!」と思えると、何だか元気が出てくるのはどうやら間違いなさそうだ。そういうことをもっと沢山できると、もっと元気になれる計算が立つはず。
 頭の中でしっかり考えて動機付けしてから行動に移すのが定石かと思うが、何だか分からないけど惹かれるものがあったらとりあえずやってみて、後から意味を考えるという荒療治もありかなと思う。結局はその方が良い経験をできてきたように感じる。

 以前の文と内容が被りました。でも今後もあり得ることです。

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