追体験

投稿者: | 2021-10-04

 聖書を読むに当たり、私の読解力や知識だけでは読み解けない部分だらけなので、略解本や辞書を引いたりして何とか本当の意味に迫ろうとする。「本当の意味」とは何だろう。神学校や聖書を学ぶための学校で教えている、セオリー的な読み解き方がきっとあるのだろうとは思う。しかし私が求めているのは私にとっての本当のことであり、それは他の人にも通じる内容かどうかはまだ分からない。他人の事は今はちょっと脇に置いておいて、まず自分の心にストンと落ちる理解をたくさん蓄えていきたい。

 難しい文献を読めば聖書の理解が深まるというものでも無い。難しい文献は文字通り理解するのが難解で、私は返って分からなくなってしまうことの方が多い。ただ希にピタッとハマる解説に出くわすことがあるので、必要な工程であることは否定できないでいる。とにかく聖書を読み解くのは大変だということを言っておきたい。そもそも新約聖書でも約2,000年前にイスラエルで起きた出来事が書かれているのであり、それを現代の日本で生きる人間が追体験し理解することは、なかなかに難しい作業になる。

 どうやったら聖書をキチッと理解できるか、ずっと悩んでいる。ただ単にスッと読むだけでは到底分からない。結局は悩んで悩んで考え続けるしかないのだろうとは思う。それは当然簡単なことではなく、時に酷い苦痛を伴うことも多々ある。けれども抗ううちに「もしかしたら、これかもしれない」という理解が不意に降りてくることがある。その時の期待と興奮は、忘れていた希望を呼び起こし、胸を踊らせる。「もしかしたら、もしかしたら」と期待感に任せて、その舞い降りたアイデアをシミュレーションしてみる。苦しさから早く逃れたいという「逃げ」の気持ちが助けるのか、シミュレーションはビシビシとハマり、聖書の理解が進んでいく。本当に不思議な感覚だ。これを携えて聖書研究会に臨んでいく。この時点でその感覚が本物かどうか、確信は全く持てていない。しかしそれがその時までに勉強した精一杯の成果であることは自信をもって言える。

 聖書の読み方について、「進歩」したとか「コツを掴んだ」等というつもりは無い。ただ気づいたというか、読み方に悩む中で、私に起きた二つの現象について言及しておきたい。一つは私が登場人物の気持ちに共感でき、その人物になったつもりで聖書の物語の中を生きられた時、“私の”理解が大幅に進むということ。まさに追体験できた証しになるかと思う。これをするには「私は何を考え、何を求める者なのか」という、「自分という人間像」に日頃から迫っていないと、なかなか難しいのかなと思う。
 そしてもう一つ気づいたことがある。それは前者とは反対に、聖書の物語の展開を今の私の現実に当てはめてリアルに考えられた時に、聖書が私に分かりやすく語り始めてくれたこと。これを成功させるためには、まず今の私に現実に起こっていることの確かな把握・理解が必要になってくると思う。そうでないと2,000年前の中東と現代の日本の空間は融合を見ないのではないだろうか。聖書を学ぶためには、同時に今の自分と取り巻く世界の理解を深め、学ばなければならないということだと思う。
 「小さな奇跡」が起こっていると言えば、大げさかもしれない。でも私にとってはそのくらい大きな、この二つの発見に気づかされた。聖書は「奇跡の物語」と言われるが、私にとっては「奇跡を起こす難問集」と言えるかもしれない。

 苦しいけどね、その分喜びも大きいんだわ。

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