今日はあと6時間後に聖書研究会を控えている。また真剣勝負の時が来る。今回は一言で言えば「挑戦」ということになるだろう。どうしても聖書の内容が具体的に入ってこないことが多くて、どこか他人事のように読んでしまい、悩んでいる。聖書とはそんなもんじゃないだろうと信じているから、この事実は私にとって辛いものだ。そんな中先日の朝、一つの考えが不意に降りてきた。前の日に遅くまで今日の聖書研究会のための発表原稿を書いていたからなのだろう、夢の中でも考え続けていたようで、恐らくそこに何かが作用した。新約聖書の主人公であるイエス様を、今日も講義をして下さる私の恩師とクロスオーバーさせて読む方法だ。
もっと言うとイエス様を恩師と置き換えて読むこと。正規の聖職者が聞いたら、「キリスト教への冒涜だ」等と、きっと怒り出すようなことだと思う。「この罰当たりが!」みたいな感じで。恩師にしてもそんな風に人から思われたら、おこがまし過ぎて嫌な思いをする可能性は高い。やり辛さは極まりないだろう。反対の立場で考えれば凄くよく分かる。でも仕方がない。それが私にとっては一番納得がいって、分かりやすい聖書理解に繋がるのだから。少なくとも今の時点では。そのアイデアが閃いた瞬間の喜びはとても大きく、やっと何かにたどり着けたような達成感すらあった。
「恩師は神さまが私に遣わしてくださったイエス様なんだ」と考えると、聖書の物語の読解が進むことはもちろん、そもそも37年ほど前に恩師と出会えたきっかけをはじめ、実際にあった様々な出来事が繋がっていくような気がするのだ。そんな思いになったことは今までなかったし、それは私の心の底から湧き出てきた、何と言うか、「希望の光」なのだ。
一方で、本当にそんなことを発表したら、恩師から怒られるかもしれないという恐れもある。私の考えが本当に“軽はずみ”なのかもしれない。しかしそんなことは確実な判断をつけられないし、怒られても構わないとすら思っている。精一杯考えた結果、神さまから授かった大切な贈り物(アイデア)くらいにまで思っているので、少々のことでは動じないと思うから。やはり挑戦するしかない。ただ恩師が怒りのあまり、「聖書研究会は今日で終了」なんてことにならなければ良いのだが……。
実際に今までこんな風に聖書のストーリーを、身近にリアルに感じられることはなかったと思う。登場人物に感情移入できる度合いが桁違いに強くなっている。それこそ一言一言が身に迫って伝わってくる描写・セリフとして聴こえてきて、こんなにも違うものかと驚いている。これから楽しみだ。
実は以前にもこのアイデアが浮かんだことはあったのだが、恩師が嫌がると思って忖度し、心の中に封印していた。ところがここに来て、もう抑え切れなくなってきた感じだ。たとえ他ならぬその恩師本人が嫌おうとも、今日は引かずに主張し切ろうと思う。もしかしたら恩師にとっても、初めて弟子からの反逆を受けることになるのかもしれない。しかしそれだけ私は、「自分の発表が心の底から湧き出てきた内容である」との自信があるし、それにどんな衝突があっても大丈夫。だっていつだって我々の聖書研究会は神さまに見守られているのだから。
いざ、出陣!! と、その前にひと眠り。