理想

投稿者: | 2021-08-01

 以前にも「教会」という存在について書いた。被る部分があるが、今日、教会について思うところを書いてみたい。
 私はキリスト教をいいなと思っていて、受洗してクリスチャンになりたいと思っている。それには、誰かに指南されたわけではなく私の個人的な条件として、毎週日曜日の10時半から行われる「主日礼拝」にある程度の期間、一年とか二年とかという期間を通して出席することを自分に課している。その程度のことが全うできないようでは、「残りの人生をかけて神さまを信じる」なんてことは夢物語だと思う。もちろん単に出席するだけではなく、神さまと向き合い、自分と向き合いながらキリスト教の教えをより深く学ぶことが付随する。最低2年間そのような営みを続けられたら自分も「クリスチャンになる資格」を得られると、誤解を恐れずに書けば、そのようなある種の“修行”に耐えられれば許可されるようなものだとどこかで捉えていた。
 でもそれって「自分に無理を強いる」ことなのではないかと思う。それでは長くは続かない。正義感とか義務感だけではいずれ限界が来る。何度もそういう苦杯は嘗めてきた。自分の忍耐力に残りの人生をかけられるほど、私はもう無謀ではない。

 2年以上前のこと、無理なく通えることができる教会を探していた。比較的自宅から近い場所にある教会という意味。加えて高校時代から馴染みのある「日本キリスト教団」に所属するプロテスタント系の教会がいいと思っていた。ちょうど偶然に知り合いの牧師先生の推薦と相まって、とりあえずその候補の内の一つに行ってみた。
 そのままその教会に一年ほど実際に毎週通った後コロナ禍になってしまい、また牧師先生が交代したタイミングもあって、通うのを止めてしまった。そういった状況的なことを言い訳にしてしまえば、通わなくなった理由が立つには立つのだが、内心そんなことが理由ではなかった。毎週通う中、心のどこかで違和感をあって、無理をしている自分に気づいていて、たまたまコロナをきっかけに無理がきかなくなった結果だった。

 例えばその教会の方たちが牧師先生を含めて、嫌だとか、尊敬できないとか、自分と合わないとか、キリスト者として敬虔とは認められないとか、そういう出席されている皆さんに原因があるわけでは決してない。ハッキリ言ってしまえば、どこの教会に行っても様々な考えの方がいらっしゃる。そんなことを言っていてはどこにも通えない。問題は私自身の方にあって、私が教会を「聖域」のように神格化してしまっているところにあると思う。「教会とはこうあるべきだ」という、律法学者的な考えが私の中で強すぎて、つまり私が神として皆さんを裁いてしまっていると思う。だから続けて通えない。そういう自分に別れを告げ、教会に通おうと心に決めたつもりだったが、未だ私は神になろうとしているようだ。

 私の中で「教会」とは「行きたくて行きたくてしょうがない場所」だ。平日に色々あっても日曜日になればそこへ逃げ込める、癒される、救われる。そんな場所・空間であって欲しいと願っている。もしそういう場所があったなら、来るなと言われても、どうにも我慢ができなくて行ってしまうのではないか。
 私は無い物ねだりをしているだけだろうか。自分は何もしていないのに、周りの環境に不平不満だけを言い放って現状を嘆くだけの愚か者だろうか。そう詰め寄られたとしても、何も言い返せない。もし私が自分に課しているように、毎週教会へ通わなければクリスチャンになれないのであれば、そういう決まりなのであれば、その道は相当厳しくなってきている。

 ダメだ、やっぱり戻りたくない

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